ロアノーク島植民地集団失踪事件 (1587〜1590)




 1584年、時のイギリス女王エリザベス1世の寵臣、ウォルター・ローリーが率いるアメリカ大陸探検隊が、ロアノーク島に辿り着いた。およそ6週間の滞在を経て、この地が植民に適しているという感触を得たローリーは、帰国後、早速植民地建設計画を練り上げ下院へ提出する。女王はローリーに対し、サーの称号と、発見した地域を自身にちなんでヴァージニアと呼ぶ許可を与えてこれに報いた。

 1585年7月、ローリーのいとこのサー・リチャード・グレンヴィルと、アイルランド戦役で経験を積んだラルフ・レーンが率いるおよそ600名からなる探検隊が、再びロアノーク島に到着する。ローリーの報告とは裏腹に、ロアノーク島近辺は決して植民に適しているとは言えなかった。近海は島だらけで、浅瀬が多く、常に座礁の危険があったのだ。取り敢えず一隊はロアノーク島北部に砦を建設し、グレンヴィルは進捗状況を報告するため帰国。一方、107名の男と共に砦に残り守備を担っていたレーン達は、現地のインディアンと衝突して激戦を繰り返していた。彼らは戦いには長けていたものの、植民に関しては素人同然であったため、食料の欠乏を如何ともしがたく、すっかり植民の意欲を失っていた。サー・フランシス・ドレーク率いる大探検隊に救出されると、これ幸いとばかりに一緒に帰国してしまう。

 ロアノーク島への最初の植民はみじめな結果に終わったが、1587年5月8日、今度は前回の航海に測量士兼画家として参加していたジョン・ホワイトが率いる一団150人が、再度ロアノークへ向けて出発する。ロアノーク島に到着した一団は植民を進め、ホワイトの娘が女児を出産し、植民地にちなんでヴァージニアと名づけられるといった慶事もあった。ちなみに彼女は植民地で生まれた最初の白人である。しかし、インディアンとの衝突が数を増すなど、状況は深刻になる一方であったことから、ホワイトはローリーに救援隊派遣を求めるべく帰国する。ところが当時のイギリスは、来るべきスペイン無敵艦隊との決戦に向け一国を挙げて準備が進行中。遥か西の植民地などに余計な船と人員を割いている余裕などあるはずもなく、救援は先延ばしとなる。

 ようやくホワイトが救援隊と共にロアノークに到着したのは1590年8月17日。しかし島は山火事がちらつく他は不気味に静まり返っていた。イギリスの音楽を演奏し、何度も呼びかけるも、全く返事が無い。翌18日にホワイト達は島に上陸、捜索を始めたが、小屋や防護柵は雑草に覆われているばかりで、娘も、孫娘も、他の仲間も、誰一人姿を見出せない。

 一体、皆はどこに行ってしまったのか。やがて一つの標識が見つかり、きれいな大文字ではっきりこう記されていた。

 「CROATOAN」(注1)



【考察】


(注1)
 CROATANとする文献もある。


【参考文献等】

『アメリカ人の歴史1』 ポール・ジョンソン著(共同通信社)
『古代文明はなぜ滅んだか』 金子史朗著(中央公論新社)

 

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