ペルシア軍集団失踪事件  (BC525)




 中央アジアに君臨していたアッシリア帝国の崩壊後、オリエント世界に覇を競ったのは、エジプト、リディア、新バビロニア(カルデア)、メディアの4大国であった。このうち最大版図を有していたメディア王国から、後にアケメネス朝ペルシアを興してアッシリア以来の大帝国を築く者が誕生する。キュロス2世である。

 父の後を継いでペルシア王となったキュロス2世はメディアに反旗を翻す。強大なメディア軍に比べ明らかに弱小の反乱軍であったが、メディア主力部隊の裏切りも手伝い、紀元前550年、メディアの首都エクバタナの占拠に成功。ここにアケメネス朝ペルシアが成立する。更にキュロス2世は、紀元前547年にリディア、紀元前539年には新バビロニアを征服。残るオリエントの大国はエジプト王国のみであったが、キュロス2世は紀元前529年、各地の反ペルシア勢力との戦いの最中に死亡する。戦死なのか病死なのかは定かではない。

 後を継いだのは長子カンビュセス2世である。彼は父が果たせなかったエジプト王国の侵略に成功、ここに古代オリエント世界は統一される。だが、彼は侵略戦争を止めようとはしなかった。身をエジプトの地に留めたまま、その目を更に遠方の国々に向けていたのである。

 カンビュセス2世の次なる標的は、カルタゴ、エチオピア、そしてシワのオアシスにあるアンモンであった。だがカルタゴ攻撃はフェニキア海軍の反対に遭って頓挫、エチオピア攻撃も補給が続かずに失敗に終わる。補給を欠いたエチオピア侵攻軍内部では、飢えた兵士達が10人1組で籤を引き合い、運悪く籤に当たった者を残りの9人で食らうという惨状が繰り広げられていたという。世に言う「カンビュセスの籤」である。

 さて、残るアンモン攻撃はどうなったのであろうか。テーベを発った5万人(注1)からなるアンモン侵攻軍は、テーベから7日の位置にあるオアシスの町、ギリシア語で「浄福の島」と呼ばれる土地に辿りついたらしい。だが、その後ペルシア軍は、アンモンには到着せず、テーベに帰還することもなかった。5万人の兵士達は砂漠の中で忽然と消えてしまったのである。

 ヘロドトスは、砂を運ぶ猛烈な南風が一瞬にして軍を生き埋めにしてしまったのだと伝えている。真相はそうかもしれず、あるいは別にあるのかもしれない。遭難箇所の正確な場所の特定すらできていないとあって、過去に行われた発掘調査も成果は上がらず、今日に至るまでペルシア軍の消息は謎に包まれている。



【考察】

 紀元前525年という大昔に発生し、ほとんど資料の残っていないこの事件の謎を解き明かすには、新たな歴史学上の発見を待たねばならず、専門家ではない筆者の手に余る問題である。以下は事件の謎解きというよりは、考察のための材料提供に過ぎない。

■ カンビュセス2世という人物

 事件について触れる前に、カンビュセス2世の人物像について見てみよう。彼について多くの記録を残しているのはヘロドトスの『歴史』であるが、同書における描写は手厳しい。アピス(聖牛)を刺し殺した、実の妹を娶った挙句殺害した、墓を暴いて死体を見物した……等々。父キュロス2世がその寛大さから理想的な君主とされているのとは大違いである。

 だが、こうしたヘロドトスの記述はどこまで信頼できるのだろうか。ヘロドトスはこうしたカンビュセス2世にまつわる話をエジプトの神官達から聞いたという。エジプトの神官達にとってカンビュセス2世は侵略者以外の何者でもない。またカンビュセス2世は、神官の収入源である神殿の歳入を大幅に削減したりもしている。神官達がカンビュセス2世に好意的であった筈はなく、ヘロドトスが悪評ばかり聞かされたという可能性は大いにある。

 明らかに事実無根と証明されているのはアピス殺しの一件である。ヘロドトスの話ではカンビュセス2世が刺し殺したことになっているのだが、紀元前525年に死亡し、メンフィスから発掘されたアピスの死骸には刺殺の痕跡はなく、自然死であることは明白であった。しかもその死骸を納めた棺はカンビュセス2世が寄進したものだったのである。こうした事実は、カンビュセス2世が当時のエジプトの風習を尊重していたことを示しており、ヘロドトスの話は割り引いて考える必要があろう。

■ 事件の出典について

 ペルシア軍集団失踪事件を今日に伝えているのは、ヘロドトスの『歴史』の次の記述である。

エチオピア遠征軍の蒙った運命は右のようであったが、一方アンモン攻撃に向った分遣隊はテバイを発し、道案内人を伴って進み、オアシスの町に到着したことは確実に判っている。オアシスの町はアイスクリオン氏の一族と称されるサモス人の占拠している町で、テバイから砂漠を越えて七日間を要する距離にあり、ギリシア語では「浄福の島」(マカロン・ネソイ)と呼ばれている土地である。さて遠征軍がこの土地に達したことは伝えられているが、それ以後どうなったかについては、アンモン人自身および彼らから情報を得た者たち以外は、これを知る者がいない。ペルシア軍はアンモンに達することがなかったし、引き返したのでもなかったのである。当のアンモン人の伝えるところはこうである。遠征軍はオアシスの町から砂漠地帯をアンモンに向い、アンモンとオアシスのほぼ中間のあたりに達した時、その食事中に突然猛烈な南風が吹きつけ、砂漠の砂を運んでペルシア軍を生き埋めにしてしまい、遠征軍はこのようにして姿を消したのだという。

ヘロドトス 『歴史 上』 松平千秋訳、岩波文庫

 以上が本事件のほぼ唯一の手がかりである(注2)。だが、ヘロドトスの『歴史』は必ずしも忠実な事実の記録ばかりとは言い難い。それに、一体誰がこの全滅の実態を持ち帰って広めたのかという疑問も残る。よって次のような疑問が生じる。この事件はそもそも存在しなかったのではないか? と。

 しかし、『歴史』は紀元前440年頃に成立したとされており、事件が起きたとされる紀元前525年から100年も経っていない。人物像の記述であればまだしも、軍隊が全滅したという大事件が全くの捏造であるとは思われず、少なくとも全滅の事実は存在したと見なして差し支えないのではなかろうか。また、消えたペルシア軍を求める考古学的な発掘調査も行われている。多大な資金を投じる以上、それなりの信憑性を確信したうえでのことだと思われる。些か心許ないが、ここではペルシア軍全滅が事実だとして話を進めてみたい。

■ 全滅地点はどこか?

 彼らは一体どこで全滅したのか。鍵となるのはテバイから七日間の距離に位置し、ギリシア語では「浄福の島」(マカロン・ネソイ)と呼ばれていたというオアシスの町であるが、残念ながらこのオアシスの町がどの辺りを指すのかは明らかでない。

 この謎に取り組んだのが地質学者の金子史朗氏で、氏はテバイからシワ(アンモン人が住んでいたとされるオアシスの町)に向かって七日の距離というヘロドトスの記述から、「浄福の島」はテバイから西に300kmの場所に位置するダクラ・オアシスではないかと推測している。今日でも人が居住する大オアシスである。このダクラからシワに向って北西に進んだ中間辺りでペルシア軍が全滅したというのが金子氏の結論である。

 同氏によれば、ペルシア軍が生き埋めになったという一見信じがたい現象も自説で説明がつくという。何故ならこの地には時折、ハムシンと呼ばれる非常に乾燥した熱風が吹き荒れ、砂嵐が発生するからである。

 金子氏の説は中々説得力があるが、これに反対する向きもある。それは「南米人類学研究所」(SARI)(※3)という組織で、「スタートラインにちょっとした間違い」があり、「歴史的に隠蔽された事実が含まれていない」のだという。だが、肝心の遭難地点については明確に説明してくれない。「現段階では、関わる幾つかの研究から、所在の推定を進めています。絞り込めても公表はいたしません。何故なら、SARIが発見する必要があるからです」だそうである。思わせぶりばかりの記述である。

 砂・時・謎

 さて、色々考察などと称して書いてみたが、考えてみればこの事件、作戦に失敗した軍勢が全滅したというだけである。こんなことは世界史上、類例に暇がない。では何故本事件を失踪事件として取り上げようという気になったのか? その答えは「砂」と「時」にある。

 失踪事件といっても様々で、人の興味を惹くものもあれば、そうでないものもある。例えば、年端のいかない子供が突然消えたとする。その原因を推し量ることは難しく、大騒ぎになるだろう。では、多額の借金を抱える独身成人男性が書置きを残して消えたとすれば? その原因は明らかだ。両者の差は「謎」の有無である。いや、そもそも「謎」無き失踪は、失踪と果たして呼べるのか、はたして――。

 そして、失踪事件の謎の強さは事情を推測できる痕跡の多寡で決まる。このペルシア軍の場合、「砂」が彼らの痕跡を覆い隠し、2千年を超える「時」が情報の精度を弱めてしまった。ゆえに「謎」が生じ、ゆえに私は本事件を取り上げるのである。

 


(注1)
 一説には2万人とも3万人とも言われる。

(注2)
 他に、プルターク『英雄伝』のアレクサンドロスがアンモンに向かった段において、ごく簡略に本事件について触れられているが、内容的にはヘロドトスの伝える話に加えるべきものはない。
ただ、ヘロドトス以外にもこの事件について触れているという点では貴重な資料である。

(注3)
 http://www15.plala.or.jp/discove/index.html

 民間の研究団体らしい。


【参考文献等】

○ ヘロドトス 『歴史 上』 松平千秋訳、岩波文庫、1971
○ 樺山紘一、礪波護、他 共編、小川英雄、山本由美子 共著  『世界の歴史4 オリエント世界の発展』 中央公論新社
○ 金子史朗 『古代文明不思議発見』 原書房
○ 世界博学倶楽部 『世界史迷宮入り事件ファイル』 PHP文庫、2007
○ 南米人類学研究所 http://www15.plala.or.jp/discove/seika06.html




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