シルク王ジム・トンプソン失踪事件 (1967)




 どこでもいい、適当なショッピングサイトで「タイ・シルク」を検索してみるといい。南国らしい極彩色に彩られつつ柔らかい光沢を備えたシルク製品の数々にお目にかかるだろう。これが世に名高いタイ・シルクである。そして、このタイ・シルクの王と称される男がいた。タイに魅せられ、タイに移住し、謎の失踪を遂げた男。男の名をジム・トンプソンという。

 今でこそジム・トンプソンの名はタイ・シルクの象徴となっており、彼の興した同名の会社が今日でも活躍しているが、ジムとタイ・シルクとの出会いは大いに偶然に支配されている。大学を出たジムが就いた職はニューヨークの建築家であり、その後34歳にして彼は二等兵として軍隊に入る。第二次大戦中の1941年、CIAの前身であるOSS(戦略作戦局)という部門に所属(この事が後の失踪事件に色々な噂をもたらすことになる)していたジムは、タイの抗日グループを組織する任を与えられる。彼がタイの仕事を命じられたのは、当人の希望ではなく単なる人事上の偶然であり、他の国に派遣される可能性は十分にあったのであるが、運命はジムとタイを結びつけたのである。ジャングルの潜伏を想定した厳しい訓練を経て、1945年8月、既に日本は降伏していたが、当初の計画通りジムはタイ・バンコクに降り立った。

 バンコクという街に、タイという国に魅せられたジムは、軍を除隊して実業家としての道を歩み始める。最初に手がけたホテル経営は仲間との仲違いにより失敗に終わったが、次に手がけたシルク業で彼は決定的な成功をおさめる。この成功について詳細に記すには一冊の本が必要であり、本欄の目的を超えている。大まかに言えば、優秀な技術がありながら存亡の瀬戸際にあったタイの家内製絹織業に目をつけたこと、そして何より彼本人のデザインのセンスと情熱が成功をもたらしたのである。

 とはいえ、単に事業に成功した事実を説明するだけではシルク王が王たるゆえんを半分しか説明したことにならない。ジムがその名を世界に広めたもう半分の理由は彼の自宅とその生活にある。建築家としての経験を活かして彼自身が設計したその家は、当時タイに広まりつつあった西欧風建築に背を向け、タイの伝統建築の粋を現代に蘇らせたものである。さらに屋内にはジムが収集したタイの伝統美術が所狭しと居並んでおり、それは住むための家というよりは、訪れる者を感嘆させるための舞台のようであった。

 そうした自宅で、ジムは連日のように客を招いてパーティを開いた。夜になり、そよ風の通り抜けるテラスに招かれた客は、松明と月光に照らされた館の影が運河にきらめく様を背景に、エキゾチックなタイの伝統舞踊と伝統音楽を十二分に堪能することになる。食卓にはジムの使用人が腕を振るった料理が並び、タイを心から愛して止まない主人が語る話は決して客を飽きさせることはない。夢のような歓待を受けた客達は帰国するや口々に体験談を語り、話を伝え聞く者は異国の地で財を成した不思議な男の姿を思い描く。かくしてジム・トンプソンの名はシルク王、白い肌をしたアジアの王侯として、人々の間で伝説化されていったのであった。

 ここで話は彼の失踪へと移る。1967年3月23日、中部マレーシアのカメロン高原に別荘「月光荘」を持つT・G・リン博士夫妻に招かれて、ジムは友人のマンスコー夫人と共にバンコクを発った。この時、ジムは出国に必要なコレラの予防注射をしておらず、また提示が必要なタイの税金納付済証明書を用意し忘れていたが、空港で予防接種を受け、税金納付済証明書の方はマンスコー夫人が保証書を一筆書くことで、どうにか出国する事ができている。

 二人はペナンで一泊した後、タクシーを飛ばして月光荘に到着するが、到着までの間に幾つかのトラブルがあった。一つは急にジムが散髪に行くと言い出したことで、マンスコー夫人は時間が勿体無いと思いつつも、いつもの彼の気まぐれが出たのだろうと思って同意している。もう一つのトラブルはタクシーに乗っている時のことで、エンジントラブルを理由にタクシーと運転手両方の交代を求められたのである。しかも乗り換えるよう求められたタクシーには先客が二人おり、相乗りになるとの説明であった。だが、ジムとマンスコー夫人は車の交代は認めたものの、先払いでタクシー代を支払っていることを理由にマンスコー夫人が相乗りを強く拒否したため、先客二人は一旦降り、ジムとマンスコー夫人は旅を続けている。このようなトラブルはマレーシアでは珍しくないが、後日起こった出来事が出来事だけに人々の間に様々な疑念を招くことになる。

 月光荘に到着した翌日は、ジムとリン博士がジャングル散策中に道に迷ったことを除けば特に変わったことは起きていない。この時、ジムはOSS時代の訓練を十二分に発揮して無事に帰還している。その後ジムとマンスコー夫人、リン夫妻の四人は、ゴルフをしたり紅茶を飲んだりして過ごした後、めいめい部屋に戻って就寝した。

 事件が起きたのはその翌日、3月26日の復活祭の日のことである。この日は午前にタナ・ラタという町で礼拝、午後から近くの高原でピクニックという予定であった。4人で一緒に行くのが当然の流れであるところ、ジムの気紛れが出発時に再び顔を出している。彼は自分だけ徒歩で向かい、後で麓で落ち合おうと言い出したのである。前日にリン博士と小探検を行っていたことからも判るように、ジムはジャングルの散策を趣味としており、彼が徒歩で向かうと言い出してもそう不思議ではなかった。かくしてジムは単独で先に出発し、麓のゴルフコースで三人と合流、礼拝を済ませ、弁当を取りに月光荘に戻っている。

 午後のピクニックの様子はマンスコー夫人の手で何枚かの写真となって残されている。この中の一枚にシートの上の食事を前にのんびりくつろいでいるジムとリン夫妻のスナップがあるが、これがジムの生前最後の写真である。写真では判らないが、マンスコー夫人とリン夫妻の話によると、ジムはこのピクニックにあまり気乗りがしなかったらしい。出発前、風景を堪能するなら別荘で十分だと話したり、早々に荷物をバスケットに詰め込みだしたジムの姿をリン夫妻が証言している。社交的で何事にも積極的なジムの性格としてはこれは意外な態度であり、後に色々と憶測を呼ぶことになる。ただ、彼は翌日にはシンガポールで仕事上の打ち合わせをしなければならず、昨日今日とジャングルを散策した疲れを癒したいと考えていたのもまず間違いのないところである。

 四人は2時半頃月光荘に戻ると昼寝をすることにし、マンスコー夫人とリン夫妻が自室に戻った。ジムは一人何をしていたか?ここから先の話は推測に頼らざるを得ない。彼は――消えてしまったのだ。

 マンスコー夫人ら三人は自室に戻って以後、ジムの姿を見ていないが、アルミ製のデッキチェアがベランダに置かれる音をリン夫妻が聞いており、またジムの部屋のベッドに人が眠った痕跡は無かったことから、彼はベランダで陽を浴びようとしていたと推測される。デッキチェアが置かれる音がしてから少し経った3時過ぎ、今度はリン夫人一人が、道路に続く砂利道をヨーロッパ人が歩き去っていく音を聴いている。夫人によるとアジア人とヨーロッパ人では歩く音が異なり、彼女はその区別ができるのだという。その後リン博士が本を読むため居間に降りてきたが、ジムが置いたベランダのデッキチェアに上着と煙草、それに胆石の発作を鎮める錠剤が残されていたことから、博士はジムが遠出はしていないと判断した。それが誤りだと確信するのは7時を過ぎ、辺りがすっかり暗くなってからである。

 翌日早朝から警察による捜索が開始される。著名なシルク王の失踪だけあって捜索は非常に大規模なものであり、多くの関係者は、少なくともその日のうちに何らかの手がかりを発見できると確信していた。しかし、捜索開始から二日を経ても、ジムらしき人影を見たという幾つかの疑わしい証言を除き、捜索隊はジムの所持品はおろか手がかり一つ見つけ出す事はできなかった。ジャングルで人が行方不明になることは多い。しかし、これほどまでに何の痕跡も見出せないというのは前例が無い。数日後には様々な説が飛び交うようになった。身代金誘拐説、自発的失踪説、CIA関与説……。だがいずれの説も確証はなく、噂話の域を出ていない。

 ジム・トンプソンのブランドは今でも健在であり、我々はいつでもその美しいシルクを手に取ることができる。また、タイのジムの家は今では「ジム・トンプソン・ハウス」と呼ばれる観光地となっており、建物や美術品が今でもそのままに残されている。だが、それらを残していった王はマレーシアのジャングルの中に消えてしまった。




【考察】

 異国の地で一代にして財をなした実業家が忽然と姿を消すという非常に謎めいた事件であり、松本清張が強い興味を示し『熱い絹』という長編を執筆するなど、ミステリファンにとってもそうでない人にとっても興味を惹かれる事件である。ジム・トンプソンという人物の強い個性と影響力が、政治的誘拐、身代金誘拐、あるいは自発的失踪と、あらゆる説明に現実味を与えてしまう点がこの事件の最大の特徴であろう。失踪者次第で謎は小さくも大きくもなる。もっとも、大きくなった謎は全て幻に過ぎないという可能性もあるのだが。

 この事件に関して日本で手に入る詳細な文献は、ウィリアム・ウォレンの『失踪 マラヤ山中に消えたタイ・シルク王』(吉川勇一訳 時事通信社)がほぼ唯一である。松本清張も『熱い絹』執筆の際はこの本を活用しており、ジム・トンプソン失踪事件を語る上での定本とみなして差し支えあるまい。以下の考察も同著に全面的に負っている。

■ 諸説の紹介

 ジム・トンプソンの失踪の謎を説明する説は、細かく見ていけばそれこそ百家争鳴という観がある。しかし大まかに分類すれば以下の4説に帰結するといってよい。

1 身代金誘拐説

 ジム・トンプソンが世界的に知られた富豪であるうえ、場所が東南アジアの密林地帯という治安の悪い土地である以上、彼を誘拐して一儲け企もうとする犯人像を思い浮かべるのはごく自然なことである。実際、マレーシアでは身代金目当ての誘拐事件が多発するあまり、政府が誘拐のみならず身代金の支払いさえも重罪とする(それでも身代金を払おうとする被害者の家族は多かった)と決めていた程なのである。

 だが、マレーシアの警察は今日では誘拐説をほぼ捨てている。何故なら、結局身代金の請求などただの一度もなかったうえ、ジムの居場所を教えれば法的な処罰を免れるとされたにも関わらず、名乗り出てジム・トンプソン商会が提供する莫大な報奨金を手に入れようとする者が皆無であるというのは考えにくいからである。犯人が欲に負けて誘拐を企む連中であるとすれば、なおさらこの沈黙は不可解である。

 さらに身代金誘拐のみならず、政治的誘拐その他あらゆる誘拐説が不自然である強力な理由がある。それは犯行のタイミングの問題である。もしジムの誘拐を企む犯人グループ(単独犯ではまずあり得ない)がいたとすれば、彼らはきっと入念に計画を立て、虎視眈々と誘拐のチャンスを狙っていた筈である。悪戯目的で子供を連れ去るというのでもない限り、無計画に誘拐という犯罪に及ぶというのは考えにくい。

 では、何故彼らはマンスコー夫人とリン夫妻が共にいた3月26日の午後という時間帯に犯行に及んだのだろうか? ジムの旅行中、もっと犯行に適したタイミングが少なくとも2回あった。1回目はペナンで散髪に出かけた時、2回目は失踪当日の午前、タナ・ラタに向かって一人ジャングルを歩いていた時である。特に2回目は容易に遭難に見せかけることができ、何者にも邪魔されない千載一遇の好機であった。ところが犯人達はこうした好機をみすみす逃しておいて、わざわざ好機とは言えないタイミングを狙ったのである。ジムが昼寝せず一人デッキチェアでくつろいだのは偶然に過ぎないのであり、彼が他の3人同様に部屋に戻ってしまえば犯行はまず不可能であった。また、当日誰かがピクニックの続行、あるいは他の予定を言い出せば、昼寝自体が行われず、恐らく誘拐の機会は訪れなかったであろう。

 誘拐説を取るのであれば、他の機会を逃してまでこの不確実なタイミングを狙ったことへの合理的な説明が必要である。もし犯人達が「他の機会」を知らなかった――つまりマレーシアにおけるジムの行動をよく把握せず、3月26日の午後が知りえた唯一の機会であったとするならば、彼らはほとんど行き当たりばったりに犯行を行ったと考えざるを得ないのである。

2 政治的背景説

 今日に至るまで根強く囁かれている説が、ジムの失踪には何らかの政治的意図が関与しているという説である。ジムがかつてOSSに所属していたこと、また身代金の要求が見られないことがこの説の説得力を強めている。ここでいう「何らか」は説の論者によりけりで千差万別であるが、主としてCIA、北ベトナムの共産主義者といったあたりがよく登場する。

 私は政治的背景説には否定的である。何故なら、まず第一に誘拐の方法が極めて不確かで危険すぎる。これについては「1 身代金誘拐説」の後半で述べた。第二に、どんな政治的背景説も、ジムを誘拐することの利益についてまともに答えていない点がある。CIAであれ共産主義者であれ、とうの昔に公職を引退してシルク業に精を出している実業家を誘拐して、果たしてどういった効果を期待するというのか。

 例えば、政治的背景説のうち最も人気のありそうなCIA関与説を考えてみよう。この説はジムが元OSSに所属しており、辞めた後もCIAとの関係、それもいざとなっては誘拐という手段が用いられるほど深い関係を有し続けていたという前提に立っている。実業家として得られたジムの深いタイへの知識、また数多の社交によって得た諸々の情報や人脈は諜報機関にとって価値があるのは間違いないが、その程度の価値しかない人物に誘拐という非法規的手段が取られはしまい。CIA関与説を採るからには、ジムがもっと重要な諜報又は陰謀活動に従事していたと考えざるを得ないのである。

 しかし、軍を除隊した後のジムがその後もCIAにとって重要な役割を担っていたとは考えにくい。昼は事業、夜は社交に励む実業家のスケジュールのどこにそんな活動を行う時間があるというのだろう? CIAとの深いつながりを想定するにしては、彼はあまりに事業に没頭し過ぎている。

 百歩譲ってジムが実業家という仮面の下に重要なCIA工作員という仮面を有していたとしよう。では、一体CIAは彼を誘拐して何をしようとしていたのか? この問いには、精々「ジムは○○の陰謀に関与していて、CIAに○○の不利益を与えるから消された」式の曖昧な答えしか返ってこない。○○の中にさももっともらしい文句を入れることはできる。だがそれらはどんなに筋が通っていても、ジムとCIAとの関係を立証しない限り砂上の楼閣に過ぎず、その程度の説得力の説であれば他にいくらでも用意できてしまうのである。ウィリアム・ウォレンはこの点について触れ、恋に狂った原住民女性がジムを誘拐したという説も同程度の信憑性があると切り捨てている。

3 自発的失踪説

 友人家族の前から行方をくらましてしまう失踪者は世に数多おり、ジムもそうした一人であったとするのがこの自発的失踪説である。この説によれば、ジムは自殺したか、あるいはどこか他の地で別生活を送っているとされる。

 ジムを知る人達は一様にこの説を否定している。そんなことをして周りに迷惑をかける人間とは思えないというのである。確かに客観的に見て、ジムが行方をくらます理由は見当たらない。事業は順調であったし、恋に破れ傷心するような年齢でもなく、その他彼が深い悩みを抱えていたという様子はない。だが、人の心とは複雑で、誰がどんな悩みを抱えているかは判りにくく、周囲の人間は失踪者の抱える悩みに気付かないか、気付いていても、失踪者に手を差し伸べられなかった引け目から口をつぐんでしまうものではなかろうか。人間、人が抱える悩みにそう易々と気付き手助けできるのであれば、世界中の失踪者は激減するに違いない。

 とはいえ、では自発的失踪説が真相であるかといえば、どうもそのようには思われない。すぐに捜索が開始されてしまうことを考えれば、わざわざ友人との旅行先で姿を消すというのは明らかに不自然だろう。更に決定的なのはバンコクを発つ際に起こったトラブルである。空港職員が規定どおりの職務を行っていれば、予防接種と税金納付済証明書の入手を忘れていたジムは出国できなかったのである。もし失踪が予定された計画だったのであれば、このような手抜かりがあるとは考えにくい。計画的ではなく発作的な失踪であったと考えられなくもないが、そう結論するための根拠は見当たらない。発作的に失踪するほどジムの精神が危機的状況に瀕しているのであれば、流石に周囲の人間もそれに気付いたであろう。

4 遭難説

 捜索開始直後、誰もが考えていたのはジムがジャングルで迷って遭難したという可能性である。遭難説が人気を失い、世論が身代金誘拐説や政治的背景説に傾いていくのは、2日に渡る大捜索が一切の手がかりも探し出せずに終わってからのことであり、逆に言えば、それまではジムは当然遭難したものと思われていたのである。

 ジャングル付近という土地柄であり、遭難がごく普通に有り得る可能性であることは議論の余地がない。そのため、ここでは主に遭難説への反証を見ていきたい。

(1) 公式の捜索は10日に渡り続けられたが、その間、ジムに関する一切の手がかりは見つからなかった。しかも失踪者が著名な実業家であったため、捜索の規模は極めて大きかったにも関わらず、何の手がかりも見つからないのは不自然である。

(2) 元マレー原住民対策局顧問、リチャード・ヌーンの調査結果。彼はジャングルの原住民とも対等に話せる極めて信用の置ける専門家であるが、その彼が原住民から聞き取り調査を行い、ジムはジャングルの中にはいないと断言している。

(3) 遭難説はジムが自発的にジャングルの方に向かっていったという前提に立っている。しかし、彼が「ジャングル・ボックス」と呼んで散策時にいつも携行していた煙草や胆石の発作を鎮める錠剤、その他諸々の道具は置き去りになっていた。

 以上三点は紛れもない事実であるが、思うに過剰評価されているのではなかろうか。まず(1)についてだが、さほど広くない日本の山でさえ遭難者が跡を絶たず、その全てが発見されているわけではない。ましてやマレーのジャングルである。大捜索にも関わらず何の手がかりが見つからなかったにしても決して不自然なことではないのではないか。また捜索は10日間続けられたとはいえ、ウォレンの著によれば、2日を過ぎたあたりから捜索隊の間には諦めの境地が生じていたという。

 (2)にしても、あくまでヌーンがそう言っているというだけであり、どこまで信頼できるかという問題がある。リチャード・ヌーンその人は極めて信用の置ける人物であるのは確かだろう。彼がジャングルの専門家であったのは万民の認めるところであったし、また彼は調査費用以外の金を受け取ろうとはしなかった。だが、この調査というのは、36時間程度行われたに過ぎなかったのである。僅か1日半の調査で断言してしまうというのは大いに疑問が残る。それに原住民が常に本当のことを話すかどうかという問題も考えねばなるまい。例えば、故意であれ過失であれ、原住民がジムを手にかけてしまっていたとすればどうか。

 (3)については引っかかるところで、日ごろジャングルを散策しているベテランのジムが万一の備えを怠るというのは違和感がある。ほんの5分〜10分程度ジャングルを歩いてくるというのであればあり得ない話ではない。が、であれば彼はそう遠くまで行っていないことになり、にも関わらず遭難してしかも見つからないままというのはおかしい。

 もっともジムとて人間であるから、単に油断していただけだと考えてもそう的外れではあるまい。ジムは確かにOSS時代にジャングルで生活する訓練を積んでおり、また日常的にジャングルの散策を楽しむという熟練者であったが、齢60を過ぎていたこと、OSSを退いて長かったことは考慮しなければならないだろう。

■ 幕間狂言

 ジムの失踪の謎については様々な人が推理を展開しているが、その中に一風変わった男がいた。ピーター・フルコスという自称超能力者である。ウィリアム・ウォレンもその著において一節を割いているのみならず(ただし、ウォレンはあくまで彼に否定的である)、フィクションである松本清張『熱い絹』においても似たような人物が登場している。

 ここでピーター・フルコスの念視とやらを詳述するつもりはない。馬鹿馬鹿しいからである。一応結論だけ述べておくと、ジムは共産主義者によってカンボジアに連れて行かれたのだという。このような政治的背景説への反論は既に述べたとおりである。

 外国、特にアメリカにはこういった「超能力捜査官」と称する人達が大勢いる。未解決事件を扱う日本のテレビ番組にも時々登場するのでご存知の方は多いだろう。彼らは推理を披露しては、的中すると声高に喧伝し、外れると――大抵そうなるのだが――最初から何もしなかったかのように去っていく。人は目覚しい成功の経験はよく覚えていても、無数の失敗については忘れてしまいがちであるから、100発中の1発でも推理が的中すれば宣伝効果は抜群というわけである。

 行方不明事件の捜索の過程で時折登場するこうした手合いについて徹底的に論じてみたい気持ちは山々だが、本章も長くなってきてしまったので、今回は超能力捜査官への批判サイトを紹介するにとどめておきたい。

○ http://www.nazotoki.com/psychic_investigator.html
○ http://www.sakusha.net/moromoro/makumoniguru2.htm

 また、ピーター・フルコスがいかに出鱈目な人物であるかについては『新・トンデモ超常現象60の真相』(楽工社)が詳しい。

■ 第二の惨劇

 既に述べたように、私はジムが単に遭難した可能性が高いものと考えている。だが、これから述べる事実は遭難説に一石を投じるものである。

 ジムにはキャサリン・トンプソン・ウッドという姉がいた。彼女は1924年に離婚した後はずっと一人暮らしであったが、元夫が株で巨万の富を築いていたこともあって、アメリカ・ペンシルバニア州に大邸宅を構え、何不自由ない暮らしを営んでいた。ところがジムが失踪してから半年近く経った1967年8月30日、掃除に訪れた家政婦が鈍器で殴り殺されたキャサリンを発見したのである。

 キャサリン・トンプソンは自宅の安全に無頓着で、寝るときも玄関に鍵をかけないことがよくあった。彼女は社交界の有名人であり、大邸宅に一人暮らしであることも知れ渡っていた。強盗に入ろうとする輩がいれば犯行は容易であっただろう。犯行の際に唯一障害となりそうなのは彼女が飼っていた2匹の番犬であったが、その日何故か2匹は反応を示していない。

 この事件をどう考えたものだろうか。失踪と何らかの繋がりがあるのか、それとも単なる偶然か、失踪の謎を追及する上では揺るがせにできない関心事である。ところがウィリアム・ウォレンは当該事件についてほとんど触れておらず、その後の経緯や、事件が単なる強盗殺人なのか他の事情があったのか等、事件の詳細はわからない。何せ事件が物盗りの仕業であるか否かもはっきり記されていないのである。ウォレンの『失踪 マラヤ山中に消えたタイ・シルク王』は大変よくできた本であるが、この淡白な態度には納得いかぬものがある。

 とはいえ、安易に二つの事件を結びつけるのは早計である。今日に至るまでジムの失踪とこの殺人とを結びつける証拠は出てきていないうえ、ジムが何者かによって誘拐されたとして、ペンシルバニアで静かに暮らす年老いたジムの姉を殺す必要性が見当たらないからである。

 ちなみに松本清張は番犬が騒がなかった点を重んじて小説を書いているが、実際には犬などどうとでもなるだろう。第一、犬が騒がなかったというのも疑わしい。彼女の家は隣家から1マイル以上も離れていたのだから、犬が騒いだか否か誰も断言できない筈である。

 30年以上が経ち、それこそ大勢の人が調査を行ってきたにも関わらず、彼の失踪については未だに謎の一文字がついてまわる。私個人は矛盾点や揣摩臆測の類を取り払って考えた場合、現状で最も可能性の高いのは遭難説ではないかと考える。確かに遭難説にも弱点はある。しかし、他の3説の弱点と異なり、遭難説のそれはそう致命的なものとは思われない。

 ジムは気紛れにジャングルを散歩しようとして還らぬ人となった――この説に納得できない人は大勢いるだろう。私とて自信を持って遭難説を主張できるかといえば、そんなことは決してない。結局のところ、どれだけ証拠を集め、厳密に考えを巡らせたところで、失踪者が見つかるまで謎は永遠に残る。後に残された人は忘却するか、妥当なところで納得するか、さもなくばずっと考え、失踪者を追い求め続けるかしかない。

 失踪とは、自らと引き換えに、この世に謎を残していくことである。


【参考文献等】

○ ウィリアム・ウォレン著 『失踪 マラヤ山中に消えたタイ・シルク王』 (時事通信社)
○ 松本清張 『熱い絹(上・下)』 (講談社文庫)




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