全米トラック運転手組合会長ジミー・ホッファ失踪事件 (1975)




 ジミー・ホッファの一日は、30回の腕立て伏せとしっかりとした朝食から始まる。グレープフルーツ、トースト、2個の半熟玉子に1杯の紅茶を平らげると、次は戦闘開始である。彼にとっては仕事イコール戦いであった。

 アメリカ屈指の巨大労働者団体「全米トラック運転手組合」、通称「チーム・スターズ」。ホッファはかつてそこのトップとして君臨、絶大な権力を手中に納めていた。だが、それも今は昔。彼がペンシルヴェニアのルイスバーグ刑務所で4年の刑期を務めあげている間に、チーム・スターズは、無能者とその追従者達、そして彼らを利用して甘い汁を吸おうとする輩に牛耳られてしまっていたのである。

 既に62歳を迎えていたホッファであったが、彼は安閑と隠居生活を楽しもうなどという気は更々無かった。この俺が返り咲いてチーム・スターズを建て直す。ホッファはその巨大組織の権力を奪い返すべく、飽くなき権力闘争に乗り出そうとしていた。その姿はどこか楽しげですらあった。あたかも挑むべき敵に巡り合えた戦士のように。

 1975年7月30日正午、ホッファは14時からの会食のため自宅を後にした。毎日のように色々な人と面会するのが彼のライフワークである。そうして一人でも多くの者を味方に引き入れ、あるいはせめて中立を保つよう説得し、それでもなお敵になりそうであれば脅して屈服させる。この繰り返しこそがホッファの人生であり、成功哲学なのだ。7月30日の面会も、そんな彼の人生の、よくある1ページに過ぎないものになるはずであった。

◆  ◆  ◆

 ジミー・ホッファことジェームズ・リドル・ホッファは、1913年2月14日、ドイツ系移民の父とアイルランド系移民の母の第三子としてインディアナ州で誕生する。特に貧しい家庭という訳でもなかったが、ジミーが7歳の時に父が急死すると、一家の家計はたちまちどん底に叩き落とされる。1929年の世界恐慌の時などは、ラードを塗ったパン1枚に塩とコショウを振りかけ、家族で分けあったこともあったという。

 ジミーは家族と共に馬車馬のように働いていたが、そんな彼が一目置かれるようになるのは、食料雑貨チェーンの下請けで貨物列車から積み荷を降ろす仕事に就いていた時のことである。この仕事には一つの難があった。15ドルの週給のため、週60時間は現場に詰めていなければならないのであるが、稼ぎになるのは列車が到着する僅かな時間のみ。その他の時間は無駄な待ち時間なのである。やがて労働者達は立ちあがった。ある日、腐りやすい果物を積んだ列車が到着するや、彼らは仕事をボイコット。会社側はたまらない。賃上げや保険制度の充実などを盛り込んだ労働契約の締結を余儀なくされる。この時の労働者側の5人のリーダーの一人が弱冠18歳のホッファであり、彼らの労働組合の名が全米トラック運転手組合――チーム・スターズであった。

 この時の成功がホッファの人生を決定づけた。身長165センチと小柄ながら逞しい体躯、恐れを知らぬ豪胆、生まれながらの負けん気の強さを持つホッファは、この世界でたちまち頭角を示すようになる。

 当時の労働活動を今の感覚で考えてはならない。それは暴力に満ち満ちた、ヤクザの抗争さながらである。当時はそもそもストライキが法で禁止されており、雇用者側は地元マフィアと組んで、容赦なく撥ねっ返りの労働者を恫喝した。いきおい、対する労働者側の活動も実力行使を伴うものとなる。そのような世界でホッファは水を得た魚のように精力的に働いた。留置場に放り込まれること20回以上、袋叩きに逢うことは数え切れぬほどのホッファであったが、彼の方も拳骨で、バットで、敵対者をぶん殴り、時には車をぶつけて相手の足の骨をへし折ったりさえもした。「やられたらやり返す」が彼のモットーだった。

 しかし腕っ節と豪胆だけでは所詮は単なる鉄砲玉。仲間内で称賛されこそすれ、労働組織を束ねていくことはできない。ホッファを組織のリーダーにまで押し上げたのは、敵対者に容赦ない一方で、人懐っこく、はにかみ屋という彼の性格が労働者に愛されたこと、そして彼の類まれなるオーガナイザーとしての力である。ホッファ自身の言葉によれば、「我々は現場に出かけては運転手たちに語りかけ、ピケを張り、ストライキの指揮をとり、昼に夜に集会をもち、組合に加入するよう諄々と説き続けた」という。その甲斐あって彼の属する第299支部は飛躍的に組合員を増やしていった。1945年にホッファは同支部長に昇進、翌1946年にはデトロイトの5つの支部を監督する合同評議会の代表理事に就任している。

 やがて日の出の勢いのチーム・スターズ、なかんずくホッファ個人に政府が目を付け始める。理由の一つはマフィアとの関係である。マフィアと手を組む雇用者側に「やられたらやり返す」精神で挑むには、同じマフィアの力に頼らざるを得なかったのである。チーム・スターズに好意的な向きに言わせれば、それはあくまでマフィアに中立をお願いしただけだという。しかし実際にはチーム・スターズ側もマフィアと組んで相当えげつない事を行っていた。例えば非協力者への恫喝。「チーム・スターズに協力しろ。さもないと……」という訳である。ましてストをちらつかせて雇用主から金を得たりするに至っては、ユスリ以外の何物でもない。ホッファにしてみれば、それら行為は労働者の権利を守るための闘争の一環であり、マフィアとはつかず離れずの関係を保っているつもりであった。しかしマフィアという劇薬に適用量はない。一旦服用したら最後、じわじわと体を蝕み、しかもそれを手放すことはできない。事実、ホッファは最後までマフィアと手を切ることはできなかった。恐らく、その最後の瞬間まで。

 次第に厳しくなる政府の追及を、ホッファは何度も際どいところで切り抜けていたが、やがて不倶戴天のライバルと出会う。「労使問題における不正行為に関する上院特別調査委員会」――委員長の名をとってマクレラン委員会と呼ばれる――の主席顧問、ロバート・F・ケネディ。かのジョン・F・ケネディの弟である。貧民からの叩き上げと、名門出のエリートという、全く相反する境遇に生まれ育ちながら、強い権力志向という点において似通っていた二人は、以後ありとあらゆる局面で敵対しあうことになる。

 ホッファとロバート・ケネディの出会いに関しては、どこまで真実かは不明ながら、次のようなエピソードが語り継がれている。あるディナー・パーディーの席上で二人は初めて出会った。するとケネディは何を思ったか、ホッファに腕相撲を挑んだ。やさ男の細腕と豆タンクの剛腕ではどちらが勝つか、誰の目にも戦わずして勝敗は明らかである。ホッファはケネディにしばらく頑張らせておいて、曰く「赤子の手からキャンディをもぎとるみたく」ケネディの腕をテーブルに叩きつけた。ケネディは憮然としてパーティー会場を後にし、以後、二人は憎み合うようになったのだという。

 1957年、ホッファがマクレラン委員会の調査員に働きかけて委員会の内部文書を得ようとしていた証拠を掴んだロバート・ケネディは、FBIを動かしてホッファの逮捕に踏み切る。容疑は3件の贈賄と共同謀議である。自信満々のケネディは報道陣を前に大見えを切った。

 「これでホッファが無罪になったら、議事堂のてっぺんから飛び降りてやりますよ」

 しかし結果は無罪。やがてケネディのもとにホッファからプレゼントが届く。パラシュートだった。

 小憎たらしい若造に一泡吹かせ、さらに同年には念願であったチーム・スターズ会長に上り詰めるなど、この世の春を謳歌していたホッファであったが、委員会とロバート・ケネディの追及が止んだわけではなかった。労働協約の締結を拒んだクリーニング店への放火未遂、敵対者への暴行と恐喝(ホッファ自ら拳を振るったことも一度ならずある)といった不法行為もさることながら、組合の2億ドルを超える年金積立の運用が乱脈を極めていることについて、委員会は執拗に追及を続けた。1961年には、ロバート・ケネディが兄の大統領就任に伴い司法長官に就任、早速ホッファ逮捕のための特命チームを組織する。ホッファは政府による労働組合への不当な弾圧であると盛んに喧伝しマスコミを賑わせていたが、自分が徐々に追い詰められている事実は認めざるを得ない。彼にとってせめてもの慰めは、1963年にジョン・F・ケネディが暗殺されたことであった。葬儀当日、アメリカ中が若き大統領の死を悼んでいる中、ホッファの事務所は終日明かりを灯して業務を続けていたという。

 日ごと強くなる委員会の追及にも関わらず、金に糸目をつけず雇い入れた腕利きの弁護団と、全国の熱烈な支持者達を力に、ホッファは何度も際どいところで有罪を免れていた。しかし1964年1月、チャタヌーガにおいて行われた陪審員への工作を巡る公判で、ついに彼は敗北を喫する。

ホッファとその陣営は、今度も無罪になるだろうとたかをくくっていた――検察側とっておきの隠し玉が法廷に姿を見せるまでは。「なんてこった」とつぶやくホッファの顔から、血の気がひいた。「パーティーンだ」――彼は我が目を疑ったにちがいない。ルイジアナ州バトンルージュのチームスターズ指導者エドワード・グレイディ・パーティーンは、ホッファが年来の盟友として全幅の信頼を寄せてきた男だった。ナッシュヴィル裁判でも支援グループの一員として働いた。だがそれもホッファを欺くための仮の姿だった。パーティーンはそれ以前から旧友に対して深い幻滅をおぼえ、敵方に寝返っていたのである。
タイム・ライフ編 『未解決殺人事件』 (同朋社出版) p261

 かくて万策尽きたホッファは、1967年3月7日、ルイスバーグの連邦重罪刑務所に収監された。

 規律を守り、周りの受刑者と上手くやっていけるという意味では、ホッファは模範囚であった。マットレスの詰め物というつまらない仕事を黙々とこなす一方、生まれて初めて読書に時間を費やし、また、トラック運転手から愛されたように、囚人達から愛された。食事や待遇の改善を求めて刑務所長にかけあったりする辺りは、流石名うてのオーガナイザーである。

 だがホッファは決して大人しく刑期を務めているわけではなかった。弁護士を通じて、出所後に直ちにチーム・スターズに復帰し、再び権勢を握るための布石を着々と打っていたのである。その一つがフランク・フィッツシモンズを総務担当副会長という要職に就けることであった。ホッファのマッチを摺ることしか能の無いボケ役という評判のこの男を、一先ず要職に置いておき、出所した暁にはスムーズに権限移譲を行うという算段である。

 ところがこれがとんだ誤算であった。フィッツシモンズはホッファが考えていたような従順な男ではなかった。巨大労働組織の最高幹部という権限、10万ドルの給与と必要経費という名のポケットマネー、広大なオフィス、350万ドルの専用飛行機……数々の特権に目がくらんだフィッツシモンズはあっさりホッファを裏切ってしまう。あるとき彼はこう豪語したという。「ホッファに忠義を示すことは、私に不忠であることに等しい」。組合の親ホッファ派は次々と解雇されていった。

 つるんでいたマフィア達も徐々にホッファから離れていった。彼らにとって大切なのは金であり、組合の巨額の基金から甘い汁を吸い続けるためには、自分らの言いなりに動くフィッツシモンズを会長に据えておく方が都合が良い。また収監中、チーム・スターズ幹部にしてニューヨークのマフィア、ヴィト・ジェノヴェーゼ一家の若頭という顔を持つ、アントニー・プロヴェンザーノという男と仲違いしたこともホッファにとって痛手であった。徐々にマフィア達はホッファを見限りつつあったのである。

 状況を打開し復権するためには、何よりもまず刑務所から出なければ始まらない。ホッファは何度も仮釈放の申請を出していたが、その度に却下されていた。しかし1971年、刑期半ばにしてついに彼は刑務所から解放される。ニクソン大統領による特赦が下ったのである。フィッツシモンズらにとっては、ホッファには刑務所にいてもらった方が都合が良かったのであるが、今なお根強いホッファ支持者の「一刻も早くホッファを出せ」という声も無視はできず、大統領選挙におけるニクソン支持と引き換えに特赦を取り付けたのであった。ホッファは喜んで仮釈放文書にサインした。チーム・スターズに舞い戻るために。

 しかしこの特赦には裏があった。仮釈放の厳守事項の一つにこうあったのである。「本来の刑期が切れる1980年まで、いかなる組合活動にも関わることを禁ずる」。1980年にはホッファは68歳。流石にこの年で権力の座に返り咲くことは不可能だろう。それならば特赦など受けず、次の仮釈放のチャンスを待った方が遥かに賢明である。自分の見た文書にはそのような条項は無かったと彼は主張した。もっともな話である。条項を知っていればサインなどする筈が無かったのだから。だが二種類の文書が用意された証拠は無い。ホッファは切歯扼腕したが、後の祭りだった。

◆  ◆  ◆

 こうして彼の新しい戦いが始まった。組合活動を禁ずる仮釈放条項が憲法違反であると提訴する傍ら、フィッツシモンズとその追従者達、そして彼らを利用するマフィア達を相手取っての権力闘争が切って落とされたのである。状況は圧倒的に不利であったが、それでもホッファは自信に満ちていた。自分を慕う人間はまだまだ多い。労働者達の圧倒的な支持を有する自分の力をもってすれば、再びチーム・スターズの会長職をもぎとることだってできる、ホッファはそう信じていた。彼が失踪したのはそんな最中の出来事である。

 1975年7月30日、その日ホッファは誰かと会食をすることになっていた。相手が誰であるかはわかっていない。約束の時間は14時であったが、14時30分ごろにホッファは家に電話をかけた。相手が来ず、自宅に何か伝言が無いかと思ったのである。妻が何もないと答えると、ホッファは腹立たしげに電話を切り、およそ1時間後、今度は来る途中で立ち寄った空港バス会社に電話をする。ホッファはそこの共同経営者であったのだ。「今からそっちに行く」。

 しかしホッファが件の会社に姿を見せることはなかった。彼は忽然と表舞台から消えてしまい、以後その姿を見た者はいない。ホッファは警察によって「行方不明者第75―3425号」と登録され、今日でも捜索は続けられているが、今なおその行方は不明である。

 だが、巷説は概ね次のような意見で一致しているようだ。圧縮機にかけられ自動車のホイールキャップにされた、あるいは解体されてフットボール場に埋められた……要するに、敵に惨殺されたのだと。


【考察】

 


【参考文献等】

○ タイム・ライフ編 『未解決殺人事件』 北代晋一訳、同朋社出版、1995
○ ケン・イングレード 『ホッファ』 大貫昇訳、扶桑社<扶桑社ミステリー>
、1993




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