オーストラリア首相ハロルド・ホルト失踪事件 (1967)




 ハロルド・ホルト(Harold Edward Holt 1908〜1967)はオーストラリアの第17代首相である(在1966〜1967)。今日ではその政治的業績云々よりも寧ろ、一国の首相でありながら波打ち際に消えて以後行方不明という、印象的な事件で人生の最後を締めくくった事で知られている。

 ホルトは1908年、興行師の父と、演劇界で有名な一家の出の母の下に生まれた。このような家系に生まれたためか、彼は必然的に演劇に興味を抱いて育つ。メルボルンのクイーンズ大学では法律を学んだが、それも自分の演劇の能力を弁論という形で発揮できると考えたためである。実際、彼には演劇の才能があったのだろう。大学の先輩の政治家で、後に首相となりホルトの引き立て役となるロバート・メンジーズと知り合ったのをきっかけに政界を目指すようになり、1934年にメルボルンの補欠選挙に立候補するや、前首相であった対立候補を相手に華麗な弁論を展開、落選に終わったものの善戦している。翌1935年、彼は再度自由党から立候補、今度は見事当選した。

 1939年、彼は31歳の若さで大臣となる。翌1940年には所属する自由党が連立内閣を組まざるを得なくなった関係から閣僚のポストを外されるものの、新閣僚3人が航空事故で命を落としてしまい、労働相として再び大臣の座に着く。1961年には経済政策の失敗から危うく政治生命を絶たれるところであったが、景気が回復するという幸運に恵まれ危機を脱している。こうして順調に政治家としてのキャリアを積んだホルトは、1966年、ロバート・メンジーズ首相の後継として首相に就任した。

 世間は就任当初は、演技じみた性格のうえ、プレイボーイとして名高かったホルトをもてはやした。しかし蜜月は長く続かない。時代は丁度ヴェトナム戦争の最中。ホルトは党の政策を引き継いでヴェトナム戦争に協力的であり、派遣軍を増強するが、これが若い世代の反発を招いた。また議会でも軍用機を私的に利用する、新人議員の演説を妨害する等の件で批判を浴びるようになり、彼の率いる自由党は選挙に連戦連敗、党内でも彼の失脚を望んでいる者がいるという噂が流れる始末である。

 そうした情勢の中、1967年12月17日、問題の日付がやってくる。その日ホルトは、いつものように週末の休暇を過ごすべく、友人達と共にチェビオット・ビーチに出かけていた。、チェビオット・ビーチは、は波が静かな時は5歳の子供でも泳げるような海岸であるが、天気が悪かったりすると潮の向きが急変するため、ヴィクトリア州沿岸では最も危険な水域として知られている。

 ホルトが泳ごうと言い出した。元より危険な地域であり、そのうえ当時彼は肩を負傷していたことから、周囲は制止を促した。しかしホルトは反対を押し切り、友人達が見守る中、泳ぎに繰り出す。スピアフィッシングを趣味とするだけあって、たちまち沖の方まで泳いでいくホルトの姿が友人達の目に写った。が、その日はどうも遠くに行き過ぎているようだった。やがてホルトの頭が波間に消え、それが彼の最後の姿となった。

 6日間に渡って大捜索がなされたが、彼の遺体はおろか、着衣の一切れすら発見されなかった。オーストラリア政府は、原因不明のままホルト首相は死亡したと推定、葬儀を行う。しかし、一国の首相の唐突な最期だけあって世間では様々な噂が飛び交った。当時彼の置かれていた政治情勢を引き合いに出して、自殺説を唱える者もいれば、ジュネーブに行って愛人と暮らした、ホルトは中国のスパイで、潜水艦に乗り込んで中国に渡ったのだという説まで流れ、長らく未解決の謎とされてきた。

 だが38年後の2005年9月2日、他の水難行方不明者の事例と共にホルト首相の事例の再検証が行われた結果、ヴィクトリア州の検視官は彼が荒波にさらわれて水死したと断定、謎は一応の解決を迎えることとなった。

 


【考察】

 上の概要にも書いている通り、この事件は事故死ということで既に決着がついている。後で述べるが、事故死であると断定するに十分な状況証拠も揃っている。にも関わらず、何故この事件を取り上げるか? それは、コリン・ウィルソンが『世界不思議百科 総集編』(青土社)及び『未解決事件19の謎』(社会思想社)で取り上げているからに他ならない。しかも、彼の失踪を巡る数多の俗説の中でも最も珍奇なものと思われる、「ホルトは中国のスパイで、潜水艦に乗り込んで中国に渡った」説を一押し(提唱者は別の人)しているのである。

 当サイトに興味を持たれるような向きの人であれば説明の必要も無いだろうが、コリン・ウィリソンはオカルトや殺人に関する著作で知られ、現在でもカルト的な人気を誇っているイギリスの作家である。

 ただ、この人は何でも無闇に信じてしまう――あるいは信じたがる癖があり、意図的に話を無味乾燥な結論よりも面白そうな結論に持っていく傾向がある。それが本人の博覧強記に裏付けられて中々の説得力を感じさせるのがコリン・ウィルソンの凄いところで、単に家で小銭を失くした程度の話でも、もし彼が「これを単なる紛失と見なして良いのだろうか?」と書こうものなら、ただならぬ現象がその背後に控えていると思わずにはいられない。

 そんなコリン・ウィルソンが著作でホルトの失踪を取り上げたのである。謎の事件に興味を持つ者にとってみれば、興味が惹かれずにはいられないではないか。

■ ホルト=中国スパイ説

 まずホルト=中国スパイ説を簡単に説明しておこう。この説は、1982年、アンソニー・グレイというジャーナリストが、その名もずばり『首相はスパイだった』という著書を出したことから始まる。コリン・ウィルソンが解説するところによると、説の要諦は以下の通りである。

@ ホルトは20歳の時、大学の討論会で、オーストラリアと中国の関係を強化すべしと主張。論文を執筆する。

A 論文の材料集めを通じて、ホルトはメルボルンの中華民国(=国民党)総領事と知り合う。後日、総領事はホルトをお茶に招き、中国の出版社が彼の論文を出版したがっていると伝え、原稿料として50ポンド(後に100ポンド)を支払う。

B 1931年、ホルトは中華民国から、諜報機関の一員になるよう持ちかけられる。任務は「中国の大儀を支援する」という大雑把なものであったうえ、かねてより中国にシンパシーを抱いていたホルトは、この申し出を快諾する。

C 1952年、中国のエージェント(ウォンという名だという)から再び接触があり、ホルトは3万ポンドの報酬を受け取る。この頃、ウォンは既に国民党から共産党へ走っていたのだが、ホルトはそのことに気付いていなかったという。

D 1954年、ホルトは「国民党への共感を失った」として、スパイ活動への協力を拒否。しかしウォンは3年後、自らが既に共産党員であると明かし、ホルトに協力の継続を求める。社会主義に共感を抱いていた(とグレイは主張)ホルトは、結局協力を継続する。

E 1967年、ホルトの政権基盤が揺らいでいる最中、彼は国内のソ連スパイに関する秘密ファイルの中に、自分のコードネーム「H・K・ボーアズ」を発見。中国への脱出を決意する。

F 同年12月17日、ホルトは中国のダイバーが密かに待機する地点まで泳ぐと、そこからダイバーに連れられて中国潜水艦に乗り込み、中国へと消える。

 グレイの説明によると、彼は以上の話を、「ホルトの真相について本を出したいので援助して欲しいと申し出た、あるオーストラリア人実業家」から入手した。実業家は海軍にいた頃、秘密の文書に目を通すうちに真相を知り、独自に調査を進めた結果、ホルトが20歳の時書いた論文、「H・K・ボーアズ」の名が記された秘密ファイルを自分の目で確認したばかりか、中国側から事の真相を明かされ、ホルトに渡した領収書の写し等まで見せてもらったという。

■ 疑問点

 コリン・ウィルソンはこう述べる。「この話には、容易にチェックできる部分がきわめて多いので、その実業家なりグレイ氏なりが嘘をついているとは考えにくい」。果たしてそうだろうか? 第一、当のウィルソン自身、この書きぶりから分かるように、自分ではチェックを行っていない(チェックしているなら、その内容を記述する方が説得力があるのは明らかである)。彼は単に、「こんな大っぴらに、すぐ分かる嘘をつく者はいない」という前提に基づきこの話を信じているに過ぎないのである。

 容易にチェックできるという主張も疑問である。説の中で、具体的な物証に基づき証明できそうな要素は、@とE位だ。@はホルトの書いたという論文、Eは秘密ファイルとやらの現物を示せば良い。しかし他はどうか? これらは、「あるオーストラリア人実業家」が語ったという話に過ぎない。では、「あるオーストラリア人実業家」とは一体何者なのだろう。本を出したいと申し出ておきながら、名前が不明のままであるのは何故か? そもそも、そんな人物は存在するのか? グレイの言葉以外に、この人物の存在を裏付ける材料は無い。総じて、容易にチェックできるどころか、雲を掴むような話である。

 また、失踪手段として説明されている潜水艦への搭乗、これも果たして本当に可能なのか胡散臭い。私はこの辺りの技術的な問題に関してはど素人なので偉そうな事は言えないが、60近い人間が、いくらダイバーの案内とはいえ、水中に潜伏する潜水艦に泳いで行って乗り込むなど可能なのだろうか。それ以前に、中国の潜水艦が人知れずオーストラリアの海岸付近まで接近していたというのがそもそも怪しい話である。

■ 離岸流

 離岸流(rip current)という現象がある。簡単に説明すると、海岸に打ち寄せた波が沖に戻る際に発生する局地的な急流のことである。流速は最大で毎秒2mを越えるが、これは男子競泳200m自由形の世界記録(イアン・ソープ、1:44.06。毎秒約1.9m)を上回る。かような急流が岸に程近い波打ち際を流れており、しかもよほど注視しないとそれと気づかないため、毎年離岸流による水難が後を絶たないという。いつの間にか沖に流されていたという、よく聞く話の原因は、大体がこれである。

 ホルトの最期を説明する現象の一つとして、この離岸流が挙げられている。チェビオット・ビーチが危険な海域であったことを考慮すれば、この説には説得力がある。また、目撃者によると、ホルトは急速に沖に向かっていったとの事だが、これは離岸流に巻き込まれたと考えれば合点がいく。

 確かに、一国の現役指導者が水泳中に事故死するなど滅多にない事である。ホルト以外には、川で溺死したフリードリッヒ1世赤髭王位のものだろう。色々な疑惑が生じるのも無理からぬ話である。しかし、「一国の現役指導者が」という枕を外せば、水泳中の事故死など世界中至る所で発生しており、別段不思議な話でも何でもない。まして、ホルトが金槌であったというのであればともかく、彼は水泳の愛好家であった。常に水の事故に巻き込まれる可能性はあったのである。今後、彼の最期について新資料が現れない限りは、公式見解通り事故死と見るのが妥当だろう。

 


【参考文献等】

○ コリン・ウィルソン 『世界不思議百科 総集編』 (青土社)
○ ジョン・カニング・編 『未解決事件19の謎』 (社会思想社)




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