アイリーン・モア灯台事件 (1900)




 スコットランド西方には、ヘブリディーズ諸島と呼ばれる大小500以上の島から成る地域がある。アイリーン・モアは、ヘブリディーズ諸島最北に位置するルイス島の、西方およそ6.5kmの海上に存在する島である。2世紀前に、スコットランドはキラルーの司教が隠遁するために建てた僧院が廃墟となって残っているほかは、長らく信仰の対象となるばかりで決して誰も移り住もうなどとは思わない、海鳥だけが支配する、隔絶した土地として知られていた。

 しかし幾世紀の時を経た1899年12月、この不毛の地に人の手が入った。僧院の上に灯台が建造されたのである。アメリカ大陸とスカンジナヴィア半島を結ぶ航路を進む船乗りにとって、ヘブリティーズ諸島を確認することは重要な意味を持つ。この付近の海は難所として知られているのだ。アイリーン・モアの灯台は、彼らを導く貴重な光となってくれる筈である。

 灯台には元船乗りから成る3人の男が常駐していた。ラジオもテレビも無い時代である。それは地味で孤独な日々であった。彼らが外部の世界と接点を持つのは、2週間に1度、灯台管理を担当する「ヘスペラス号」がアイリーン・モアにやって来て、水と食料、燃料に新聞、そして何よりも有難いと思われる、代わりの交代要員を乗せてくるときのみである。灯台守達がヘスペラス号の船員たちと束の間の会話を楽しみ、休暇に入る者が交代要員と入れ替わりで島を後にすると、アイリーン・モアには再び元の静寂が訪れるのである。

 1900年12月15日、貨物船アーチャー号がヘブリディーズ諸島の沖を航行していた。船の向きを変えようとして、船長は現在位置を確かめるべく、アイリーン・モアの光を探した。ところが奇妙な事に、光はどこにも見当たらなかった。船長は船の位置を計測してみたが、何度計測しても、船が灯台の光の届く位置にあるのは明らかであった。アイリーン・モアの灯台からは救難信号が発光できるようになっており、灯台にトラブルが生じても、よほどの事がない限り救難信号が目に付いた筈であるのだが、それすらも見当たらないのである。アーチャー号の船長は目的地に着くと、港の役所に事の次第を知らせた。しかし、その報告は恐らく役人の不手際であろう、どこにも連絡されずじまいであった。

 それから10日余り経った12月26日、ジム・ハーヴェイ船長率いるヘスペラス号が、いつものように食料等を乗せてアイリーン・モアに到着した。既に灯台の光が消え、アイリーン・モアにただならぬ事態が発生していることは把握済みである。ハーヴェイは汽笛、次いで大砲の音で灯台に呼びかけてみたが、何の応答もない。灯台守の3人――当時当番をしていたジェームズ・デュカット、ドナルド・マッカーサー、トマス・マーシャルの身に何かあったに違いない。

 船員達が調査のためボートに乗って灯台に向かった。灯台の中はきちんと整っており、灯台のランプにも何の異常も見られなかった。そこにデュカット、マーシャル、マッカーサーの3人が居れば、何の変哲もない、いつもの灯台の光景である。しかし、そこからは、3人の姿だけが、欠けたパズルのピースのように忽然と消えうせていた。ヘスペラス号の乗組員はその後も3人を探し続けたが、3人の生きた姿は勿論、死体すらも見つけることは叶わなかった。

 一行はその後の調査を専門の調査員に委ねることを決断、ヘスペラス号は、今や再び無人となったアイリーン・モアを後にした。

 その後の調査の結果、島の西側に暴風雨の跡があること、岩の割れ目に常備してあった道具箱が見当たらないこと、そしてデュカットとマーシャルのオイルスキンが失われているという事実が明らかになった。一見すると、デュカットとマーシャルが暴風雨下で、道具箱を使った作業中、誤って海に投げ出されたのは明らかなように思えた。しかし、マッカーサーまでいなくなったのは何故か? 彼のオイルスキンは灯台に残ったままなのである。

 さらに奇妙なことに、マーシャルがつけていた日誌には、極めて異常な内容が記されていた……。

 


【考察】

 船から人が消えるという話はマリー・セレスト号の事件を筆頭によく聞く話であるが、灯台から人が消えうせるという話はあまり聞かないように思える。灯台というものが一般人にとって馴染みが薄いせいだろうか。しかし、絶海の孤島の灯台とは、ある意味船舶以上に孤独な環境であり(灯台に船のように数十人が存在するとは考えられない)、いつ謎めいた失踪事件が起きても不思議はない。

 当該事件の謎は大きく分けて2つある。1つは後に発見されたという、トマス・マーシャルがつけた不可解な日誌であり、もう1つは「何故3人一度に消えうせたか?」という謎である。

■ 謎の日誌と、ロベール・ド・ラ・クロワの推理

 まずは日誌について考えてみたい。フランスのノンフィクション作家、ロベール・ド・ラ・クロワが、その著『海洋奇譚集』で日誌を元に推理を展開している。日誌の内容と共に氏の推理を紹介してみよう。まずは日誌である。

12月12日
 北西から強い風雨があり、波しぶきが塔の頂上まで達した。全て順調。デュカットは怒りっぽい

 同日
 嵐が吹き続け、多数の船の灯火が見えた。デュカットは静かだ

12月13日
 相変わらず西からのひどい風。デュカットはずっと静かだ。マッカーサーはお祈りをしている

12月15日
 嵐は終わった。神はどこにでもおられるのだ

(ロベール・ド・ラ・クロワ『海洋奇譚集』を元に作成)

 見るからに不自然な記述である。何故マーシャルは同僚の様子などを記録したのだろう。通常、灯台守が記録するような内容ではない。また、12、13日と嵐があったように書かれているが、実際にはその日は穏やかな天候であった。では嵐とは何か? アイリーン・モアに、一体何が起きていたのだろうか。

 この謎を、ロベール・ド・ラ・クロワはこう解釈する。曰く――マーシャルは精神錯乱状態に陥っていた。「嵐」とは実際の出来事ではなく、彼の心象風景である。そんなマーシャルにデュカットは苛立ち、「怒りっぽ」くなっていた。やがて2人の間に乱闘が生じる。マーシャルはデュカットを殺してしまい、「デュカットは静か」になった。マッカーサーは死んだデュカットのために「お祈りをし」、マーシャルも我に返り、「嵐は終わった」。死んだデュカットの遺体は、岩ばかりの陸地への埋葬は不可能であるため、水葬されることとなった。陸でも海でも「神はどこにでもおられるのだ」。ところがデュカットを水葬する際、大きな波が2人を襲った……。

 続けてロベール・ド・ラ・クロワは、実際に灯台で起きた、精神を病むことで発生したと思しき事件を列挙する。海難事件を多く扱っているという彼の筆致には中々説得力がある。実際、船上や灯台で精神を病む人というのは、我々が思っているより多いのだろう。

 しかし、何の物的証拠にも基づいていない点がこの説の弱みである。デュカが精神を病んだとするのは認められるにしても、殺人を犯した、葬式を行った云々は想像の域を出ていない。日誌の記述だけでここまで推測するのは無理があろう。それに15日にマーシャルが我に返ったというならば、その日の日誌に実際の出来事を記載しそうなものだ(後で書こうとした可能性もあるが)。訳者は「上質の短編推理小説を読むような出来栄え」と絶賛しているが、少々褒めすぎではないか。

■ 日記の話は信用できるか

 実は日誌の話そのものが実話であるか疑わしい。

 執筆者について混乱が見られる。というのは、ロベール・ド・ラ・クロワはトマス・マーシャルが書いたとしているものの、コリン・ウィルソンの『世界不思議百科・総集編では、ジェームズ・デュカットが書いたとしているからである。ウィルソンの記述が正しいとなると、ロベール・ド・ラ・クロワの推理は根本から揺らいでしまう。単なる名前の聞き間違いといったレベルの問題ではない。こうした基本的な事実関係からして確定できないとなると、話事態が何とも覚束なくなってくる。

 そればかりか、日誌そのものが存在したかも怪しい。超常現象研究最前線というサイト(http://www.fitweb.or.jp/~entity/index.html)によると、問題の日記はイギリスの作家ヴィンセント・ガディスがその著作で紹介したもので、「トゥルー・ストレンジ・ストーリーズ」という1929年発刊の雑誌が出典になっているという。サイトを見てもらえば判るが、日誌の内容はロベール・ド・ラ・クロワの紹介する話と酷似しており、出典が同一物であるのは間違いない。

 ところが、同サイトによると、この雑誌は「あまり、信用できるものではない」とある。この手の話では出典が大切である。怪しい出典にも関わらずあれこれと推理を巡らすのは時間の無駄であるばかりか、推理があらぬ方向に向かっていきかねない。一体どんな雑誌なのか。以前、今はリンク切れの海外のサイト(恐らく古本を扱うサイト)で“True Strange Stories”の表紙を確認したのであるが、どんな雑誌かと思えばパルプ雑誌である。これでは信用できない。「ほんとうにあった怖い話」を、ほんとうの話と見做すようなものである(面白いことに、「トゥルー・ストレンジ・ストーリーズ」も、訳せば「本当にあった奇妙な話」といった意味である)。少なくとも、一次情報として信を置くに値するものではないだろう。

 信憑性の暴落はまだ続く。この「トゥルー・ストレンジ・ストーリーズ」を元に話を書いた、ヴィンセント・ガディスという人物。実は怪奇現象研究家で、バミューダ海域周辺で起きた事件・事故にあらぬことを付け加え、「バミューダ・トライアングル」と名付けた張本人である。これでは矢追純一が「ムー」を元ネタにしているようなもので、話の信憑性は皆無と考えたほうが良さそうである。ロベール・ド・ラ・クロワには気の毒だが、日誌云々の話はヨタ話としておくべきだろう。

■ 3人全員が消えたのは何故か

 日誌の話はガセとしても、3人が一度に消えた理由は謎のままである。オイルスキンが見つからないデュカットとマーシャルはともかく、オイルスキンが残ったままのマッカーサーまでもが事故に巻き込まれるというのは不自然だ。マッカーサーはよほど不注意な人物であったか、あるいは非常に慌てており、オイルスキンを着用しないまま暴風雨に飛び出していったのだろうか。

 この問題について、ウォルター・アルデバードという人が次のように推理している。まず、灯台に何らかのトラブルが発生する。デュカットとマーシャルが暴風雨の中、オイルスキンを着て道具箱を取りに向かう。その時大波が押し寄せ、2人のいずれかが海に流される。残る1人が灯台に残っていたマッカーサーに緊急事態を告げると、マッカーサーはオイルスキンを着る暇も惜しんで外に駆け出す。マッカーサーともう一人が海に落ちた同僚を救おうとしていると、再び大波が押し寄せ……かくて3人は荒波に消えた。

 あくまで推論である。かかる緊急事態が発生したという証拠は無く、状況を上手に説明する数多の説明の一つに過ぎない。しかし、これ以上に説得力のある説を組み立てるのも難しいだろう。この説明で納得できず、どこまでも事実を追求しようとするのであれば、後はコリン・ウィルソンの次のような言葉で納得しておくしかないように思える。

 「確実に言えることは、次の事実だけだ。あるおだやかな日、なにかが発生して、謎を解く鍵の一片も残さずに、アイリーン・モアから3人の男をさらって消した」。

 


【参考文献】

○ コリン・ウィルソン、ダモン・ウィルソン 『世界不思議百科 総集編』 関口 篤 訳、青土社、1995
○ ロベール・ド・ラ・クロワ 『海洋奇譚集』 竹内 廸也 訳、光文社<知恵の森文庫>、2004




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