ドナルド・クロウハースト失踪事件 (1969)




 1927年、チャールズ・リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に成功。
 1953年、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイがエベレスト初登頂。
 1967年、フランシス・チチェスターがヨットで単独世界一周に成功。

 このような陸・海・空における偉大な記録を見ていくと、もはや地上には大きな冒険の余地は残されていないと判断しても無理はないと思える。しかし、イギリスのサンデー・タイムズ社はそうは考えなかったらしい。「より大胆なやり方で記録を達成することはできる」。この「大胆なやり方」を促すべくサンデー・タイムズ社は、ゴールデン・グローブ・レースの開催を決めた。ただでさえ難しいヨットでの単独世界一周を、スピードを競うレース形式で行おうというのである。

 ゴールデン・グローブ・レースの参加者は、1月1日から8月31日までの間にスタート地点であるティンマスを出発しなければならない。出発後はどこかへ寄航するのは勿論、他船からの援助も受けてはならず、文字通り一人ぼっちの航海を要求される。こうした要件を満たし、無事世界一周を達成した者のうち、最も早い日に到着した者には名誉のトロフィーが、最も速い記録で到着した者には賞金5,000ポンドが与えられる。これは2006年の日本円に換算するとおよそ1,200万円に相当する額である。

 ロビン・ノックス・ジョンストン、ナイジェル・テトリー、チェイ・ブライス……熟練の海の男達がレースの参加に名乗りを挙げた。皆ヨットでの世界一周を達成したことのある人物である。そんな錚々たる顔ぶれの中、一人無名の男がいた。ドナルド・クロウハースト。独自の航海用ナビゲーターを考案したビジネスマンで、ヨット乗りが趣味だという男である。日曜ヨットマンが海のプロを相手に張り合おうとしている姿は人々の心を掴んだ。後援会が組織され、彼の人気に目をつけたティンマス市の広報担当者は、連日のように彼にまつわるニュースを流した。

 クロウハーストは期限ぎりぎりの8月31日にティンマスを出航する。その後、無線からは航海が順調である旨の連絡が続いた。どうやら彼は、周囲の期待に応え大健闘しているらしい。12月初めに1日で243マイルも進んだという報告がなされると、支持者達は彼の優勝の可能性に言及し始めた。9人の参加者のうち5人は既にリタイヤしており、クロウハーストがこのペースで進めば、最速記録の更新は間違いなかった。

 ところが1月に入り、クロウハーストからの連絡が途絶える。周囲が不安に駆られる中、再び連絡してきたのは4月に入ってからのこと。相変わらず順調な航海ぶりを伝えてはいたが、この長い沈黙は審判長チチェスターを初め、一部の専門家の疑惑を招いた。実はクロウハーストは既にリタイヤしているのではないか? しかし大多数は彼の無事を喜び、ティンマスの町ではクロウハーストの歓迎準備が進められた。ロビン・ノックス・ジョンストンが4月22日にティンマスに到着し、トロフィーは彼の物となったが、賞金5,000ポンドの行先は残るナイジェル・テトリーとクロウハーストの一騎打ちに委ねられた。

 7月10日、そんな熱狂が沸いているとはつゆ知らず、フロリダ行き郵便船ピカーデイ号が大西洋上を航行中、一隻の無人のヨットを発見した。ヨットの名前は「ティンマス・エレクトロン」。クロウハーストのヨットの名前である。船内には特に異常がなく、機器や食料、救命ボートも無事に残されたままだった。ピカーデイ号の船長は当時の状況を、有名な「マリー・セレスト号」事件を引き合いに出して語っている。

 ヨットの中にはクロウハーストがつけていた航海日誌が残されており、航海が実は失敗の連続であったことや、徐々に正気を失っていく彼の精神状態が赤裸々に記されていた。更に調査を進めると、3月19日にクロウハーストがヨットの修理のため、ブエノスアイレスに寄航していた事実が明らかになった。完全なルール違反である。

 肝心のクロウハースト本人については、今日に至るまで行方知れずのままである。遺体は最後まで発見されなかったが、彼は恐らく海に身を投げたのだと見なされている。


【考察】

 クロウハーストの最期については、どこかの船に拾われて南米辺りで暮らしているという説も流れたようだが、珍説の類であろう。彼が自殺したのは状況からしてまず明らかであり、ほぼ疑問の余地はない。しかし、この話には世に数多ある失踪事件を彷彿させるものがある。それは単に遺体が見つかっていないためだけではない。

■ 準備不足

 クロウハーストの破滅の原因となったのは、第一にその杜撰な準備にある。レースの参加を決めた当時、彼は世界一周するに足るヨットを持っておらず、急ぎ仕事でヨットを完成させた。ヨットはトリマラン(三胴艇)と呼ばれる種類のもので、スピードに優れる代わりに操作が難しいとされる代物である。彼のような初心者が手に負えるようなものではない。しかし彼はそれを選択した。技能が他より劣る以上、船の性能でスピードを得るしか、栄誉を得る手段は無いと考えたのだろう。

 参加を決めてからヨットを建造するという始末であるから、準備期間も短くなる。当然、航海準備も疎かになる。出航が土壇場の8月31日になったのは既に述べたとおりである。クロウハーストは慌しく海に乗り出した。ヨットの修理に使うスペア部品は、倉庫に置き忘れたままだった。

■ 自己欺瞞

 出航後すぐに、クロウハーストは自分の甘さを痛感させられることになる。ヨットのスピードは予定の半分にも達しておらず、防水箇所に海水が染みてくるにも関わらず、防水ポンプはまともに作動しなかった。出航後僅か2週間目の日、彼は日誌にこんな弱音を書き綴っている。「これほどまずいことだらけで続けようというのは、恐らく馬鹿げたことだろう。私は……自分に残された別の事について考えよう」。

 クロウハーストが考えた「別の事」、それは勿論レースの放棄である。しかし彼は考えた挙句、レースを続行する道を選んだ。彼はこの期に及んでも、「もしかしたらレースに勝てるかもしれない」と思い込んでいた、あるいは思い込もうとしたのである。その思い込みは無線で偽りの報告を重ねるにつれ助長されていったことだろう。無線で順調である旨を強調すればするほど、クロウハーストの脳裏には陸の上で歓喜に沸く支持者達の姿が浮かび上がり、後戻りが困難になっていったに違いない。

 やがて彼は偽りの日誌をつけ始めた。偽の航海日誌をつけるには極めて専門的な能力が必要で、専門家の目にかかればたちまち見破られてしまう。きっとクロウハーストにとってその行動は、後に調査された際の証拠作りというよりは、自らを欺く手段であったのだろう。

 だが、次第にクロウハーストは、自分が行っていることが自己欺瞞であるということすらもよくわからなくなっていったらしい。日が進むにつれ日誌には不合理な記述が増え、断片的な思索、詩、引用等が無数に見られるようになった。それらは計25,000ワードにも及んでおり、彼が時間の大半を混乱した日誌作りに費やしていたと推察される。精神に異常をきたしていたのは明らかである。

■ 逃走

 彼がいつ大海原に身を投げたのかは定かではない。確たる手がかりが無い以上、永遠に解明されることはないだろう。日誌は6月29日で終わっているため、単純に考えればこの日が彼の命日のように思われるが、その2日後の7月1日だとする意見がある。日誌には、錯乱していく精神状態のせいであろう、1日243マイル進み、243日でゴールするといった具合に、243という数字が頻出する。7月1日は、彼が出港した10月31日から丁度243日後に当たるのである。

 7月1日、クロウハーストは大勢の群集に迎えられ、歓喜の声を一身に浴びている筈だった。5千ポンドの賞金を得、借金を返済できる筈だった。一躍時の人となり、英雄としての洋々たる人生が開かれている筈だった……。

 ところが現実のその日、彼は大海原の中心で、一人漂っていた。

 時間という、偽りの日誌ではどうにもならない現実を突きつけられたその日、クロウハーストは、『未解決事件19の謎』(社会思想社)の著者の一人であるアラン・ワイクスの言葉を借りれば、「うしろめたさと挫折感に耐えかねて、船も命も放棄した」のである。

 クロウハーストは自殺者というよりは、失踪者、あるいは逃走者であった。彼は自己欺瞞に追い詰められた挙句、自ら死を選んだというよりは、単にみじめな現実から逃げ出しただけなのだろう。追い詰められた場所が陸上なら、行方をくらまし失踪者となれば済んだ。しかし、大西洋の真ん中のちっぽけなヨットの上では、海に飛び込むより他に逃げ道は無かったのである。

 彼の支持者達は何とも後ろめたい思いをしたことだろう。クロウハーストが破滅したのは確かに彼の自己顕示欲によるものであったが、周囲がそれを煽ったのもまた事実である。後ろめたさを償うため――というのは皮肉に過ぎる見方だろうが――クロウハーストの遺族救済のための募金活動が始められた。優勝者のロビン・ノックス・ジョンストンが賞金の全額を寄付したことが、このやり切れない話の唯一の救いである。


【参考文献等】

ジョン・カニング・編 『未解決事件19の謎』 (社会思想社)
Wikipedia英語版 Donald Crowhurstの項




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