作家アンブローズ・ビアス失踪事件  (1914)




 アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce 1842〜1914?)は19世紀後半に活躍したアメリカの作家である。短編小説の名手として知られ、専ら戦争や殺人といった陰惨なテーマを、乾いた筆致でブラックユーモアを湛えつつ、冷笑的に描いた作品群を数多く残した。1913年、メキシコに旅立ったのを最後に彼の消息は途絶え、今なおその最期は謎に包まれたままである。

 ビアスはオハイオ州の貧しい農家に、13人兄妹の10番目の子として生まれた。典型的な貧乏人の子沢山である一族をビアスは軽蔑しており、15歳で高校を卒業するや家を飛び出し、新聞の印刷所勤めを皮切りに、様々な職業を転々とする生活を送るようになる。だが3年後の1861年、南北戦争が勃発したことで、彼の人生に転機が訪れた。ビアスは、当てのない現状からの脱出を夢見て、また奴隷解放という理想に駆られて、北軍の第9インディアナ歩兵連隊に入隊したのである。ビアス18歳の時であった。

 軍隊生活はビアスの性に合っていたらしい。後年ビアスが執筆した回想記には、貧しい農家の暮らしを嫌い、逃げ回っていたにも関わらず、泥まみれの訓練と血みどろの戦いを続ける軍隊生活に対しては、さほど嫌悪の念を感じず、寧ろ充実した生を楽しんでいたかのような彼の姿が見てとれる。ビアスは水を得た魚のように活躍し、その勇猛果敢さで1863年には中尉に昇進した。貧農上がりの一兵卒が、2年で将校にまで出世したのである。さぞかし晴れがましい気分であったことだろう。

 だがそれも、グラントを初めとする将軍達が丘の上で酒を飲みながら戦闘を見物する姿を目にするまでのことであった。ビアスが戦場で体験してきた数多もの凄惨な出来事は、所詮、高官からしてみれば、酒飲み話で終わってしまう程度のものだったのである。その後、ピケッツ・ミルの戦いにおいて、気まぐれで無謀な命令に振り回された挙句に惨敗した経験も重なり、ビアスが感じていた戦争への充実感は、次第に単なる虚無感へと変わっていく。1865年1月に退役。肩書は名誉少佐であった。

 元々文学に憧れを抱いていたビアスは、この頃から筆で食べていこうと決意していたようである。サンフランシスコで造幣局の夜警をしながら図書館に通って文筆修行に励み、新聞への寄稿を中心に作家・ジャーナリストとしての道を歩みだす。1868年、ニューズ・レター誌の編集長となるや、その毒と風刺により紙面はたちまち活気づき、ビアスは一躍その名が知られるようになる。やがて彼は、エレン・デイ、通称モリーという鉱山技師の娘と結婚。新婚旅行がてら滞在したロンドンでも、1872年から1875年にかけてその辛辣な筆を大いに振るい、大きな好評を博した。帰国した後もビアスは、1877年にはアーゴノート誌、1881年にはウォスプ誌の編集長を任されるなど、ジャーナリストとしての地歩を固めていく。

 そんなビアスの経歴は、1887年、後の新聞王ランドルフ・ハーストによりサンフランシスコ・エグザミナー誌に招かれたことで最盛期を迎える。イエロー・ジャーナリズムを売り物にするハーストの下、彼は思う存分に皮肉と風刺を書き続けた。1895年には、虫のいい法案を通そうとするサザン・パシフィック鉄道会社に対し、ハーストが一大キャンペーンを展開、ビアスはその中心となって活躍し、法案の廃案に漕ぎ着ける。また、短編小説を発表するようになったのもこの頃である。それら作品は『兵士と市民の物語』、『ありうべきことか?』といった短編集に結集し、特に戦争を扱った前者は評判となった。「ビター(辛辣な)・ビアス」、「文筆界の解剖学者」、「ニガヨモギをインクにしている」とは彼を評した言葉である。

 しかし、ジャーナリズムと文学の両世界で名声を得る一方、家庭生活は散々たるものだった。結婚当初こそ、家庭生活の喜びを友人に口にするビアスであったが、数年後ロンドンで暮らす頃には、家庭生活は冷え切っていた。妻モリーに対して不満があったというよりは、家庭生活そのものがビアスの気質に馴染まなかったのである。彼は仕事にかこつけてロンドンを飲み歩くようになる。家庭から遠ざかるビアスの生活は、サンスランシスコに帰ってきてからも変わらず、彼は専ら書斎で独りで執筆に明け暮れ、たまに出てきたかと思えば、外で散歩や狩をして過ごすばかりであった。

 そんなビアスの家庭に悲劇が降りかかる。聡明でビアスも期待を寄せていた長男のデイが、新聞記者になりたいと言って家出をした挙句、恋愛関係のトラブルから決闘を行って命を落とし、次男リーも肺炎で死亡してしまったのである。それだけではない。ある日ビアスは、誰とも知れぬデンマーク人の男から、妻モリーに宛てて送られた膨大なラブレターを発見してしまう。モリーには何の落ち度もなかったのであるが、感受性の強かったビアスは激怒して家を出てしまい、以後、モリーとは生活費を送るだけの関係となる。モリーは夫の無理解な仕打ちにも耐えていたが、1905年についに離婚が成立。その後間もなく彼女は他界した。当時ビアスは63歳。孫の顔が見れてもおかしくない歳で、彼は家族3人に先立たれたのだった。

 家族を失い、仕事の評判も思わしくなかった彼が(全集を出版したが、さしたる評判を呼ばなかった)、齢70を過ぎて懐かしく思い出していたのは、戦場にあった若き日々であった。戦争に幻滅を感じ、戦争の残虐さを描いた数多の作品をものしていたにも関わらず、それでもビアスにとっては、軍人時代が自分の最も輝かしい時代であったのである。1913年10月2日、彼は南部の古戦場を巡る旅、そして永久にアメリカから去る旅に出かけた。

 その後のビアスの足取りは詳らかではない。10月27日にサンアントニオ入りし、数週間、何かをためらうように国境周辺をさまよった後、11月末にメキシコはエル・パソの対岸ファレス市に到着。その後パンチョ・ヴィヤ軍のオブザーバーとして参加し、チワワ州チワワに到着した事までは判明している。1913年12月26日、「明日は軍隊の出入りの慌しいチワワから一部汽車を使ってオヒナガに行くつもりだ」と記した友人宛の手紙を最後に、彼は消息を絶つ。娘ヘレンの要請により行われた国務省の捜索も成果を挙げる事はできず、現在でもビアスの最期について、決定的な説は出されていない。




【考察】

■ 計画された失踪 

■ ビアスの文学

■ 幾つかの説

■ フィクションの中のビアス


【参考文献等】

『ビアス選集1〜5』 奥田俊介ほか訳 (東京美術。第3巻のみ悠久出版)




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