英外交官ベンジャミン・バサースト失踪事件  (1809)




 ナポレオンという稀代の軍事的天才が破竹の勢いでヨーロッパ中を席巻していく最中の1809年11月25日、オーストリアはベルリンの西方に位置するペイルバーグという町に、一人の若い男が人目をはばかるように滞在していた。男の名前はベンジャミン・バサースト。イギリスから派遣された外交官である。 

 1805年にアウステルリッツの戦いで大敗を喫し、屈辱的なプレスブルクの和約によって多くの領土を奪われたばかりか、賠償金まで科せられていたオーストリアは、失地回復の時を眈々と狙っていた。1808年から始まったいわゆるスペイン独立戦争でナポレオンが苦戦を強いられているのを見るや、これぞ好機とばかりイギリスと第五次対仏大同盟を締結、フランスに反旗を翻す。この動きに関わっていたイギリス側の密使の一人がベンジャミン・バサーストであった。

 1784年9月にノーウィック主教の3番目の子として生まれたこの若き外交官は、1809年初頭、オーストリアにフランスへの宣戦を促すという役割を帯びてウィーンに遣わされる。バサーストが具体的にどのような外交活動を展開したかについては詳らかでない。だが、オーストリアは同年4月にバイエルン、そしてイタリアへ侵攻を開始しており、彼の活動は一定の成果を上げたと見るべきであろう。だが、そんなバサーストの成功も、オーストリア軍がヴァグラムの戦いで敗北、シェーンブルンの和約を結んだことによって徒労に終わる。

 もはやオーストリアに滞在する意味はなかった。本国から帰還命令を受けた彼は、自らをコッホという名のドイツ人商人と称してウィーンを抜け出す。フランスに自らの素性が知れれば、どのような運命が待ち受けているかは明らかであったからである。ウィーンからベルリンを経由し、ハンブルグに向かう途中のペイルバーグで、バサースト一行は馬を換え、「白鳥亭」という名の宿に入る。そこで早めの夕食を取った後、夜陰に紛れて一気にハンブルグに向かうというのが彼らの計画であった。

 バサーストは相当恐怖に駆られていたらしい。宿に入る前、彼はペイルバーグの守備隊長であるクリッツィンクという人物に警護を依頼し、2名の兵士が警護に同意している。しかしこの2人は、しばらくすると帰ってしまった。

 夕食後、バサーストは部屋に籠もって書き物をしたり、仮眠をとったりしていたが、やがて中庭に停めてあった馬車の様子を見に一人で宿を出た。それが彼の最後の姿であった。彼が消えるところを描写した有名な文章がある。「馬の前方に回りこみ――その後二度と姿を見せなかった」。

 夜9時を回り、従者達は主人の帰還を待っていたが、彼が戻ってくることは永久になかった。

 

 


【考察】

■ フォーティアンの古典

 ベンジャミン・バサースト失踪事件はフォーティアンにとっての古典の一つである。フォーティアンとはアメリカの奇現象研究家、チャールズ・フォートに由来する言葉で、奇現象の収集や研究を好む人たちを意味する。事件の考察に移る前に、チャールズ・フォートという人物について簡単に触れておこう。

 フォートの履歴については不明の点が多いが、ニューヨーク州で育てられたことは判明している。母親は彼が4歳の頃に死に、父親はしばしば彼をひどい目に遭わせるなど、家庭環境は決して良好ではなかったらしい。10代で家を飛び出し、新聞に寄稿する身になるも、同新聞はやがて廃刊。その後彼は、世界中を貧乏旅行したり、半端仕事で日々の糧を得るなどしていたが、やがて食うに困らない遺産が懐に転がり込み、生活に転機が訪れる。仕事に追われることなく、自分の研究に専念できるようになったのである。

 彼が興味を抱いていた研究課題。それは世界中の奇現象であった。『アメリカ奇人伝』(カール・シファキス著)から引けば、「黒い雨、空から降る氷、アイルランドに出現する中国アザラシ、空に出る奇妙な光、消えた惑星、蛙、蟹、血が空から降る現象、説明不可能な人間の消失、人間の自然発火、ポルターガイストなど」。フォートはこれらに関する新聞記事を収集し続け、頻繁にロンドンを訪れては大英図書館に籠もってノートを取り、研究成果を著作にまとめるという生活を、死ぬまで続けた。

 フォートの活動に対し、学会やジャーナリズムは専ら冷淡であったが、中には熱烈に彼を支持する人たちもいた。『アメリカの悲劇』で名高い作家のセオドア・ドライサーはその筆頭である(注1)。やがて信奉者達は「フォート学会」を結成、フォーティアンと呼ばれるようになる。フォートが1932年に死亡した後も、フォーティアン達の活動は今日に至るまで健在である。イギリスでは雑誌「フォーティアン・タイムズ」が発刊、日本にも「日本フォーティアン協会」が存在し、フォートが生前そうしていたように奇現象の収集を続けているのである。

 ベンジャミン・バサーストの失踪事件はフォートの1929年の著作『見よ!』で紹介され広く知られるようになった。日本においては知名度が低いらしく、事件について触れている日本語の文献は少ない(注2)。本項は、主としてフォーティアンのマイク・ダッシュ氏が『フォーティアン・タイムズ54号』に発表した論考、「ベンジャミン・バサーストの失踪」に拠っている。

■ 目撃者は誰もいない

 事件を考えるに当たってまず検討せねばならないのは話の信憑性であるが、ベンジャミン・バサーストという外交官が存在し、ペイルバーグで失踪したという事実は無数の公文書に記録されており、疑う余地は無い。だが、今日伝えられる話のどこまでが実際の出来事であるかについては留保が必要である。「馬の前方に回りこみ――その後二度と姿を見せなかった」と、あたかもバサーストが一瞬にして消滅したかのように伝えられているが、このような出来事が実際に発生したとは容易には考えにくい。

 バサースト失踪事件の最大の特色となっているこの描写の出典は、ベアリング・グールドという19世紀イギリスの国教会牧師が『コーンヒル・マガジン55号』に寄せたエッセイである。フォートは『見よ!』においてそっくり同じ描写を用いて紹介している。恐らく文章が気に入ったのであろう。

 冷静に考えてみればグールドの記述にはおかしな点がある。一体誰がその一部始終を見ていたのか? 馬以外の目撃者がいた筈である。だが、その目撃者の名前は決して明かされない。それどころか、当のグールド自身はすぐ後でこう書いているのである。「誰もバサーストが消えた瞬間を目撃しなかった」。

 馬脚を現すとはこのことである。当のグールド自身が目撃者などいないと白状してしまっている。目撃証言が残っているのはバサーストが何らかの目的で宿を出たところまでであり、彼が宿を出てどこに行き、何が彼の身に起こったのか、誰も見た者はいない。あたかも見てきたかのような作り話、人はそれを小説と呼ぶのである。バサーストがあたかも一瞬にして未知の空間に消えたかのような記述は、グールドがでっちあげ、フォートが踏襲したために定着した神話に過ぎない。

■ 陰謀か、強盗か?

 しかし、グールドによる粉飾を取り除いてみたところで、イギリス公使が謎の失踪を遂げたという事実は依然として残ったままである。一体彼はどこに消えてしまったのか。有力な説は以下の2つである。(1)フランスによる陰謀。(2)強盗による犯行。

 将来も邪魔になりそうなバサーストをフランスが闇に葬ったとするのが(1)説であり、事件後ほどなく、イギリスとフランスの間ではお決まりの誹謗合戦が繰り広げられている。イギリスがフランスの犯罪行為を非難すれば、フランスは「気の弱い外交官が自殺したに過ぎない」とやり返すといった具合である。現代人の視点からすれば19世紀前半のヨーロッパというのは物騒で無秩序なイメージがあり、要人の一人二人闇に消されるのはよくあること、と陰謀説に加担したくもなるが、所詮陰謀論に過ぎない。フランスの手がバサーストの身の上に加わえられたという確固たる証拠は何もない。

 一方、(2)説の強盗犯行説はというと、実はその後の調査により断片的な証拠が挙がっている。調査を指揮したのはクリッツィンク大尉。バサーストの依頼に応じて護衛を派遣した、あのペイルバーグの守備隊長である。自分の管轄下においてフランスの手先が横行しているなどとは考えられなかった彼は、犯行が物盗りの仕業によるものという推定の下、迅速に捜査を開始した。

 ほどなくして重要な証拠が挙がる。バサーストが消えてから2日後の1807年11月27日、シュミットという一家の家の傍から、英国風の高価なコートが発見されたのである。一家の一人、オーガスタス・シュミットはバサーストが失踪したその日、白鳥亭で馬丁として働いており、彼の母親もまた同じ宿で働いていた。

 更に同年12月16日、ペイルバーグから北に3km離れた森の中で、バサーストの着用していたズボンが見つかった。ズボンは2、3日前にわざとそこに隠されたかのような状況で、また2つの銃痕が残っていたが、それに伴い当然残っていなければならない血痕は見られなかった。これらは何者かが銃による暗殺を偽造し、フランスの仕業に見せかけようとした証拠だとクリッツィンクは考えた。当然、第一容疑者はシュミット一家である。だが、庄司淺水著『世界の怪奇物語』によると、事件は有耶無耶になってしまったらしい。シュミット一家の家からは例のコート以外何も発見されず、一家も犯行を否認し続けたこともあって、オーガスタスとその母親は8週間の禁固刑に処せられただけであった。

 それから45年後の1852年4月、第2の手がかりが発見された。バサーストの消えた「白鳥亭」からほんの100メートル程度離れた場所に位置する一軒家が取り壊された際、その床下から、頭蓋骨を叩き潰された男の死体が発見されたのである。一軒家はキーゼウェッターという石工がクリスチャン・メルテンズという男から購入したもので、メルテンズの父親は「白鳥亭」で働いていたことがある。メルテンズの父親が娘の嫁入りの際、見分不相応に相当の持参金を用意していた事実も明らかにされた。

 だが、メルテンズの父親の容疑も有耶無耶になった。バサーストの姉ジストルスウェイト夫人が頭蓋骨を見分、兄のものではないと証言したからである。しかし彼女は50年近く弟とは会っていなかったのだから、その証言の確実性には疑問符が付されるべきであろう。

■ 真実と神秘を前にして

 さて、陰謀説と強盗説の2つを見てきたが、どちらが真実に近いのだろうか。有耶無耶になってしまったとはいえ証拠らしきものが残っている分、強盗説に分があると考えるべきであるが、フランスの関与が全くないとも断言できない。バサーストと直接関係はないが、ハンブルグ近郊でフランスのエージェントが誘拐の罪で起訴されている。オーストリア内においてもフランスが極秘に活動していた証であり、彼らがバサーストを手にかけなかったとは言い切れない。結局、現時点でバサースト失踪の真相を特定するのは困難であると言わざるを得ない。

 真実の追究を一段落したところで、今一度グールド由来の神秘に立ち返ってみよう。物盗りの仕業であれ政治的な陰謀であれ、グールドがそれらより現実的な可能性に思い至らなかったとは考えにくい。彼はそうした可能性があることを十分承知していたことだろう。のみならず、その可能性の方が明らかに高いのは百も承知であったに違いない。

 だが、グールドは敢えて自著でその可能性について伏せた。グールドの著を読んだフォートもまた現実的な可能性を黙殺し、彼の信奉者もそれを踏襲した。彼らは皆、真実と神秘を前にして後者を選び、前者は興を削ぐものとして排除したのである。かくしてベンジャミン・バサーストは「馬の前方に回りこみ――その後二度と姿を見せなかった」人物として語り継がれるようになった。

 グールドやフォートにとって、真実を伏せることは、伝説を生み出すうえでどうしても必要なことであった。最初から強盗の可能性を仄めかしてしまっては、バサースト失踪事件は神秘的な事件になり得ないからである。しかし、長い年月を経た今日では、真実と神秘を取捨選択する必要は無い。真実を暴いてみたところで、神秘は神秘として残り続ける。

 我々は両方を考察することができる。ほんの時々、片方だけで満足したくなることはあるにせよ。





(注1)
 『アメリカ奇人伝』には、フォートの最初の著作『呪われた者の書』が出版される際のこんなエピソードが紹介されている。「ドライサーは、この原稿を自分の小説の出版元ホーレス・リヴァライト社へ持ちこみ、こう掛け合った。「これを本にしていただきたい。だめなら私の著作の出版は今後別の筋で考えざるを得ない」」。

(注2)
 今のところ庄司淺水著『世界の怪奇物語』と、同氏が訳した『世界怪奇物語』(E・F・ラッセル著、1964)『大長編ドラえもん のび太の日本誕生』の2冊しかお目にかかれていない。ちなみに後者では、場所がオーストリアではなく「オーストラリア」とされてしまっている。


【参考文献等】

○ 庄司淺水 『世界の怪奇物語』 三修社、1987
○ Mike Dash “The Disappearance of Benjamin Bathurst” (http://www.mikedash.com/index.htmより)




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