線路から消えた人影
このような駅や線路において見かけた筈の人影が忽然と消えてしまうという事件は日本全国で度々発生している。以下に幾つか紹介しよう。
以上、新聞や週刊誌等のソースがはっきりしている事件のみを挙げた。実際にはもっと数多くの事件が伝えられていることだろう。 |
いわゆる幽霊譚であり失踪事件とは趣が異なるが、人が忽然と消えるという現象であれば何でも無節操に取り上げるというのが当サイトのスタンスである。この手の話題は既に「消えるヒッチハイカー」でも取り上げていることでもあるし、細かいことは気にせず考察してみることとしたい。
■ 事件として まず指摘したいのは、具体的な情報を手に入れたうえで「事件」として見れば、不思議でもなんでもないケースがあるということである。 例えば類話3、志賀本通駅で起きたというケース。事件を報じている2007年8月20日の読売新聞中部版を見ると、「駅員がホームを捜索した際、男児3人がいたため声をかけたが、「知らない」と答えたという」という記述がある。何のことはなくて、その場に疑わしい男児は確かにいたのである。十中八九、この悪ガキらの一人がふざけて線路に降りたと思って間違いないだろう。ただ線路に降りた男児と同一だという証拠が無いため、駅員もそれ以上追及できなかっただけの話だと思われる。 西荻窪駅で起きたという類話5のケースにしても、読売新聞が報じるところによると、「警視庁荻窪署は、男性が持っていたバッグが車両に接触した可能性があるとみて調べている」というから、これも特段不思議な話ではない。類話6も北國新聞によれば、「(運転士は)飛び降りる 瞬間は目撃していなかった」とあるから、これも些か心許ない話である。 類話1は今はなき写真週刊誌『FLASH』(1996年11月12日・19日合併号)で特集された事件であり、この手の事件としては最も有名な古典に属する。が、記事を見る限り、はっきりと女性が飛び込んだところを目撃したという証言はなく、女性が着ていたという服も、運転士は青い服と主張する一方、警官のメモには「グレーっぽい服装」とされており矛盾している。 上記概略において、私は意図的にこうした重要な事実を伏せて記述した。細部を切り離して、単に「人影が消えた」という現象だけ語れば怪談のように見える話も、実際に記事に当たって具体的な事実を知ればつまらない話であったりすることがお分かりいただければ幸いである。 ■ 怪談のメリット 勿論、全ての事件が以上のようにあっさり解決するわけではない。多くは結局のところ原因不明である。ではその時、運転士は一体何を見ていたのだろうか。 ――まあ、当の運転士を含め、誰にもわかるまい。列車の運行とは長時間の緊張を要する大変な仕事である(最近は運転中に携帯電話をいじったり漫画を読んだりする不心得者もいるようであるが)。疲労から何かを見間違えたか、軽い幻覚でも見たのだろうと私は確信している(注1)。が、見間違えた「何か」が何であるかは、これはもう解決しようのない問題であろう。 運転士はプロとして、「そんな筈はない。確かに人影を見た」と反論するかもしれないが、人間の記憶や知覚というものはあてにならぬものである。プロだって時には間違いを犯す。法医学には「接触は痕跡を残す」という大原則があるという(コリン・エヴァンス『不完全犯罪ファイル』(明石書店))。本当に人が撥ねられたりぶつかったりしたのであれば、そこに鉄の一片、血の一滴、痕跡の一切も残さないというのはありえない。丹念な捜索にも関わらず、そこに何の物理的痕跡も発見できない以上、気の毒だが運転士は何かを見間違えたと断ずるほかない。 従って本件は本来、過失として指弾されるべき問題である。が、ここで上手い具合に幽霊話が持ち上がった。鉄道会社としてはこれに乗らない手は無い。過失の目くらましにはもってこいだからである。無論、表立って堂々と幽霊を認めるわけにはいかない。この21世紀の世に何をぬかすのかと指弾されるのが関の山である。「運転手は確かに見たそうですが……」といった当たり障りのないコメントでお茶を濁し、後は世間の口に任せる。かくして幽霊譚が完成、鉄道会社は失態を隠せて安堵し、世間は暇つぶしができるというわけである。 ■ 颯爽と消えた彼は何処に? だが見間違いなどでは解決できない謎の事件が存在する。2002年7月2日に発生した次のようなものだ。
複数の目撃者が存在しており、単なる見間違いである可能性は低い。また、衝突して歪んだ鉄製フェンスを確認したという報告例も散見される。実話であろう。時速100kmで走行する列車から飛び降りながら無事で済むとは驚くべき身体能力である。しかも「赤い服」で、「何事もなかったように歩いて姿を消した」ときている。まるでルパン3世のようではないか。驚嘆すべき話である。 もっとも実際のところはどうであろう。これは単なる私の想像だが、彼は痛みに耐えて毅然と歩き、周囲の人の目が届かない場所まで来るや、あらゆる緊張の糸が解け、脂汗を流しつつ、苦悶の表情も露わに帰宅の途につき、病院にも行かず、養生のためじっと体を横たえ、己が愚行に対する自責と後悔の念に押しつぶされていたのではないか。明らかに酒に酔っている人間ほど「俺は大丈夫」などとのたまうように、彼もその実、向う見ずな行動の果てに相当の苦痛を味わいつつも、逆にその気恥ずかしさから、誰の助けも借りず立ち去るという道を選んだのだろう。勿論、人に捕まればただでは済まないという判断もあったに違いない。が、事情はどうあれ、頑健な肉体と精神を併せ持つ彼の超人性が減じられることにはならない。 あまりに破天荒な事件であるため、度胸試し、あるいは売名行為ではないかという疑念にも駆られるが、その可能性は低いように思われる。騒ぎを起こさないよう静かに立ち去っており、その後名乗り出るようなこともしていないからである。もっとも世の中には20cmほどの魚を生きたまま飲みこもうとして窒息死したり、オートマチック拳銃でロシアンルーレットを行ったりと、凡人には想像もつかない独創的な愚行を実践して命を投げ捨てる人々が少なからずおり(注2)、彼もその一人に過ぎないという冷笑的な見方もできなくはない。しかし本件に関しては単なる向う見ずな愚行という訳ではなく、相応の目的があったのだと私は考える。目的があろうとなかろうと、愚行は愚行と言われればそれまでであるが……。 ではその目的は何か。ここで推理は行き詰る。「車両は窓が開かず、停車駅で連結部にしがみついたとみられる」とあるので、彼は住吉駅より前の駅で列車にしがみつき、住吉駅でダイナミックな途中下車を行ったということになる。よほど住吉駅まで行きたかったのだろう。タクシーでは駄目だったのか。一本電車を待つという判断はできなかったのか。電車一本遅らせられない相当の事情があったのか。だとしても命を賭すほどのものなのか。そもそも、怪我をしたのでは用件は果たせないのではないか? 疑問は尽きない。 ネットが普及し、溢れる情報を手軽に検索できる世の中である。この男も死んでいるのでなければ、自分が主役となったこの事件が、あちこちで言及されていることについて知っていてもおかしくはない。自分が英雄視される様子を見れば、まんざら悪い気分はしないことだろう。 いずれこの雑文も目にされる機会が来るのを見越して、謎のあなたに申し上げたい。決して名乗り出たりなさいませんよう。謎の人影が時速100キロの列車から飛び降り、苦痛を色に出さず、颯爽と去ったという点にこの事件の魅力はあり、あなたがどんな容姿で、どんな立場の人であろうと、正体が明らかになった途端、魅力は粉々に打ち砕かれ、露となって消えてしまうのです。全てを蛍光灯の光に照らすのではなく、謎は謎のまま、夢は夢のまま宵闇の中に。スポットライトを浴びようなどと、くれぐれもお考えになりませんように。 |
(注1) |
【参考文献等】
○ 小池壮彦 『幽霊は足あとを残す』 扶桑社、1999 ○ 『怖い噂の真相』 ミリオン出版、2009 ○ Wikipedia 「住吉駅」の項(2011.12.18閲覧) |
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